文化・芸術

2018年6月18日 (月)

広谷喜十郎の歴史散歩 323


      父と娘

 父の日にあたり、近所のスーパーマーケットでお父さんの似顔絵募集があった。孫は、画用紙いっぱいにパパの顔をでっかく描いた。そして、題は、「のみすぎに ちゅうい!!」見事金賞。
 私は全くの下戸であるが、パパである長男は少々飲む。すぐに真っ赤か。それを孫は、よく捉えている。
 息子は、夕方の保育園の放課後、親類で手の空いた人がみてくれていた。いずれも老人であったから、紙と鉛筆をあてがい自由にお絵描きをしていたわけだ。
 そして、幼稚園になって絵画教室に通い、よく絵を描いていた。高知市長賞も何度かもらい、楽しく絵を描いていた。当時の高知市長は、坂本昭氏であった。
 昭和51年の17号台風襲来の日、あの「自分の身は自分で守って下さい」の非常事態宣言が出た。私たち2人は、教員であったから学校が休校になると確認できたら高台の団地で、子供たちと休暇を過ごした。(罰当たり?)

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2018年6月14日 (木)

広谷喜十郎の歴史散歩 322


    高知市自由民権記念館

 過日、高知市自由民権記念館で会合があった。そこの2階では、坂本龍馬の遺志を引き継いだ坂本直寛についての展示がなされていた。
 私は階段を上がることができないので、見学を諦めたが、直寛については研究している。
 龍馬は、幕末に京都にあふれている浪人たちを引き連れて北海道に移住させ、開拓させようとしていた。
 明治時代になり、龍馬の遺族によって実現されることになった。龍馬の長兄・権平を継いだのが直寛である。彼は自由民権家として活躍し、キリスト教派の支持を受けた。北海道の北見の原野開拓をすべく「北光社」を設け、初代社長となる。
 それが縁となり、昭和61年4月に、高知市と北見市が姉妹都市となった。その展示がなされていると思うと是非に拝見したいと思ったが、老人や障害者は門前払いである。

 現在は、どこでも老人に優しい。セルフの店でも、手が差し伸べられる。甘えるわけではないが、足腰の不自由の人間に配慮していただけたらと思う。これは老人の繰言であろうか。
 この自由民権記念館の植材について、私宅の植材をされた業者からその経歴書に、署名を求められた。私宅の小さな庭であるのに。

 

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2018年6月 8日 (金)

広谷喜十郎の歴史散歩 321

  高知新港に豪華客船がやってきた

 6月7日、土佐湾に面した高知新港へ大型の豪華客船を見に行った。世界最大の「クアンタム・オブ・ザ・シーズ」で有る。定員4,180名、168,666t、全長348m 全幅41mだそうである。ほんとにビックリ。
 一般見学用の高台から。これは、地震対策用でもあろう、ヘリポートが設けられていたから。
 平常日であるから、娘・息子に連れられてやってきた老人が多かった。私もそうであるが。近くで見ていた老婦人に話しかけられた。「大きなマンションが、海上に浮かんでいるようですね」と。
 桂浜の龍馬記念館から見ると、小さくなって目の前の大きな感動は得られなかった。龍馬もジョン万もこの船を見たら、ビックリであろう。
 

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桂浜から見たら


2018年6月 4日 (月)

広谷喜十郎の歴史散歩 320

    梅雨入り

 高知市(四国地方)の梅雨入りは、先月28日に発表された。

 昭和45年、愛宕町に住んでいた。8月のことであるが、台風による雨で高知市の東部が浸水した。我が家も床下浸水。汲取式トイレであったから、苦労した。
 この後、高台の団地が大人気であった。バスしか交通手段を持たなかったから、毎日の生活は大変であった。が、子供たちは造成真っ最中の団地の中で、冒険遊びに夢中であった。
 お金の都合で、狭い土地しか手に入れられなかったから、蔵書・家財が増える中、広い敷地だけを考えて今の住居に落ち着いた。自前の浄化槽である。
 それが、市営の下水道が配管されるようになり、目下工事中である。工事完了が待たれる。

高知市広報より河川図
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下水道工事の様子

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2018年5月22日 (火)

広谷喜十郎の歴史散歩 319

    ご飯や

 今回も高知市生まれの妻・雅子が書きます。
 前にも書きましたが、私の祖母は担ぎ婚で祖父と一緒になりました。そこで、生活をするため煮売屋を始めたようです。祖父は、多分漁師の末裔であったらしい。お墓を見ると、曾祖父の墓があるから、曾々祖父が漁民であったと思う。曾祖父の弟・叔父とその妻などの墓がぐちゃぐちゃ。何でかな?と思っていたが、納得した。遭難した曾々祖父を祀るためには、遺骨が無かったのではないか。

 父祖の地を離れ、新開地・愛宕町に移り住む。そこで生まれた祖父は、高等小学校まで進む。そして妻を娶るが、食べることを考え、煮売屋を思いついたらしい。つまり、ご飯やである。今思うと、祖母はかなり賢かったようで、現実に相応し、自分の立場を堅実に歩んで行ったようだ。夫婦で商売をし、愛宕街道で、桑市が立つのに合わせて、煮売りやを始めた。土佐山から桑の葉を売りにくる人に昼ご飯を提供する「ご飯や」である。そして、魚・料理を提供する仕出し屋になった。
 戦時中、疎開先に土佐山を選んだのは、伝手があったからであろう。土佐山に、桑尾という地区もある。
 非日常に使うものは、早く疎開させたり、庭の池に埋めたり、明日の朝運ぶ物は、荷車に載せていた。当時、4歳であった私も覚えている。明日、疎開先へ向かうため、私の履く藁草履も作られていた。
 空襲警報で目覚め、母の帯から作られたリュックサックを背負い愛宕町から三谷を越え、土佐山村網川へ向かった。江ノ口変電所辺の田圃では、多くの人が布団を被りながら、水路に浸かって倒れていた(多分死んでいたのだと思う)。
 頑張った私は、褒められ、「頑張ること」は良いことだ。と、植え付けられた。

 私は、祖母に仕込まれてお料理は、得意ではある。三度三度は、片付けも大変なので昼食は、ご飯やを利用することが多い。うどん・そば・ラーメン屋もあるが、ご飯とおかず、汁物を堤供する店が多くなった。熱々の卵焼きは人気商品である。


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2018年5月 9日 (水)

広谷喜十郎の歴史散歩 318

   八十八夜

“夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る 「あれに見えるは茶摘みじゃないか…”
の季節になった。
 ゴールデンウィークの最終日、高知県山間部・梼原町にある温泉(日帰り利用)へ行ってきた。このホテルは、地元産の杉をたっぷり使っている。この町は、いま最も輝いている建築家・隈研吾氏設計の建築群で知られる町になった。隈氏は、新東京国立競技場の設計でも知られる。高知県立林業大学校校長にも就任され、後進の育成にも力を発揮している。
 かつては、土佐のチベットとかいわれ、新任教員にとっては忌避したい地であった。道路が改良され、高知市から2時間程で行くことが出来る新しい魅力的な町になっている。
 温泉で癒され、隣町の津野町の道の駅で新茶の試飲をさせてもらった。まろやかな茶に口福が訪れた。この茶は、高知市内や近郊の食堂でも供されている(新茶ではないが)。
 この地は、四国カルスト山地の中腹、いわゆる津野山街道沿いにある。山の中腹辺まで茶畑が広がっている。「四万十川源流地」でもあり、土佐茶の名産地にもなっている。
ここの山茶は、昔から香り高いことで有名であった。静岡県などの茶問屋が、香りづけのために大量に買付けにやって来ていた過去がある。
 現在は、地元の若者が「足元の宝物・茶」を地域振興に繋げるよう頑張っている。道の駅の裏山は、「鶴松ヶ森」。初心者(?)でも楽しめる登山口になっている。


隈氏設計のホテルと湯棟との連絡橋
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2018年5月 1日 (火)

広谷喜十郎の歴史散歩 317


   5月の空

 老化に伴い足元が不自由になった。次男が彼方此方連れて行ってくれる。
 4月下旬、いの町から春野町に通じる道を走っていると、豪農であろう、4本ののぼり旗が建っていた。1つは、高知ではよく見られる武者フラフ、2本目は何と・阪神タイガースの縦縞柄フラフなのだ。もちろん鯉も泳いでいた。
 「フラフ」の語源については、英語のフラッグであると説明されていた。「土佐医学史」を書いた時に、『外来語辞典』を見ると、オランダ語に通じる説明がなされていた。気になり、「大漁旗」など調べていると、明治時代の「英語のフラッグ」が起源とする説は、「??」と思っていた。
 その後、『高知県方言辞典』(高知県文化振興事業団)が刊行された。それによると、オランダ語からとの説明が有り、納得した。
 近所を散策していると、アンパンマンのフラフが2枚ベランダに掲げられていた。鯉のぼりももちろん。子供の成長を願う親心が感じられる。
 フラフの図柄としては、悲劇のヒーローの武者が多い。災いを肩代わりして欲しい・悲劇にくじけないで強く生きて欲しい願いがあるらしい。
 アンパンマンや阪神タイガースには、頑張る力を子供にも。の願いであろうか。
 フラフは、高知市より東部で見られる。5月の風が吹かないと、はためかない。日本が子供たちが、元気になりますように!!
 

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2018年4月26日 (木)

広谷喜十郎の歴史散歩 316


     滝宮天満宮

 先頃、香川県を訪ねた折、綾川町にある滝宮天満宮にお参りをした。祭神の菅原道真は、仁和2(886)年から寛平2(890)年の間、讃岐の守として赴任した。この場所は、讃岐国国司の官舎(有岡屋形)のあった場所といわれている。
 天神様であるから、奉納された絵馬の数はもの凄く多い。つい先日、うそ替え神事も行われた。
 この地方は、仁和4(888)年3月頃から大旱魃に見舞われた。田植えの準備もできず、麦も枯れるという事態になった。道真公は住民を救うために、7日間断食をして、祈雨の願文を捧げて祈祷したという。5月頃、天は曇り、雷鳴が四方に轟き、三日三晩に渡って大雨が降ったと云う。枯れかけていた作物は、蘇生した。
 こうして、滝宮の念仏踊りが始まったという。踊り手と歌い手が別れている念仏踊りは、「雨乞いの踊り」が起源とされる。今でも継承されており、8月25日に行われる。
 高知市の潮江天満宮は、道真の実子・高視をお祀りしている。

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2018年4月20日 (金)

広谷喜十郎の歴史散歩 315


   満濃の池へ行く
 
 空海にゆかりの満濃の池を訪ねた。高知市内の小学校を卒業した妻は、小学校の修学旅行で行ったというだけで、何の興味も持ち合わせなかったらしい。
 先週、香川県中南部、仲多度(なかたど)郡まんのう町にある溜池を初めて訪ねた。
 この地方は、四国山脈に遮られ、降水量は少なく、日照時間は長いため、讃岐三白といわれる、米麦・砂糖・綿の産地である。
 農業用水を確保するため、大小の溜池が18,620程あると云う。その中心になっているのが、満濃の池である。堤防の高さが32m・水深6m、湛水面積は3,239haである。丸亀・善通寺・多度津・満濃・琴平地区に及ぶ広大なものである。大宝(たいほう)年間(701~704)に築かれたという。その後決壊を繰り返し、空海(弘法大師)が築池別当として派遣され、821年(弘仁12)修築した。
 しかし、その後も破堤を繰り返し、鎌倉時代から江戸初期までは放置され、池の中に村落ができたという。
 やがて、明治初年から改築工事が本格的に始まった。戦後になって、ようやく現在のような池ができあがった。

 冬から春にかけて、中国大陸から流入する黄砂がよく観測される。今回の取材旅行中も、讃岐富士(飯野山)は霞んでいた。


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2018年4月 9日 (月)

広谷喜十郎の歴史散歩 314

     南風(まぜ)の海

 この時期、海の方から吹いてくるやや西よりの風を「まぜ」と呼ぶ。もちろん漁民のつかう方言である。
 昔、漁村の調査をしていた折に、よく聞いた言葉である。仁淀川の河口にある土佐市側の道の駅は、「南風(まぜ)」と名付けられている。夏が近づく頃、魚が押し寄せて来る。親しみを込めて呼ぶ言葉のようである。
 私は、地元紙・高知新聞の木曜日の「高知の釣情報・魚信」を良く見る。それにより、釣り上げられる魚が変化することがよく解る。
 ここは、大きい波のうねりがあるのか、サーファーのメッカのように賑わっている。
 幡多郡の黒潮町には、「なぶら」という道の駅がある。佐賀漁港の近くで、「カツオのタタキ」を食べにくる人々で賑わっている。県外ナンバーの車が多い。「なぶら」とは、魚群のことである。ここは、日本一カツヲを釣り上げる漁船・明神丸を保有している。カツオ幟を空に泳がせている。
 それにふさわしい名前である。私はカツオの刺身が大好物である。年老いて、噛む力が弱ってきたが、刺身は優しい。


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