文化・芸術

2018年4月20日 (金)

広谷喜十郎の歴史散歩 315


   満濃の池へ行く
 
 空海にゆかりの満濃の池を訪ねた。高知市内の小学校を卒業した妻は、小学校の修学旅行で行ったというだけで、何の興味も持ち合わせなかったらしい。
 先週、香川県中南部、仲多度(なかたど)郡まんのう町にある溜池を初めて訪ねた。
 この地方は、四国山脈に遮られ、降水量は少なく、日照時間は長いため、讃岐三白といわれる、米麦・砂糖・綿の産地である。
 農業用水を確保するため、大小の溜池が18,620程あると云う。その中心になっているのが、満濃の池である。堤防の高さが32m・水深6m、湛水面積は3,239haである。丸亀・善通寺・多度津・満濃・琴平地区に及ぶ広大なものである。大宝(たいほう)年間(701~704)に築かれたという。その後決壊を繰り返し、空海(弘法大師)が築池別当として派遣され、821年(弘仁12)修築した。
 しかし、その後も破堤を繰り返し、鎌倉時代から江戸初期までは放置され、池の中に村落ができたという。
 やがて、明治初年から改築工事が本格的に始まった。戦後になって、ようやく現在のような池ができあがった。

 冬から春にかけて、中国大陸から流入する黄砂がよく観測される。今回の取材旅行中も、讃岐富士(飯野山)は霞んでいた。


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2018年4月 9日 (月)

広谷喜十郎の歴史散歩 314

     南風(まぜ)の海

 この時期、海の方から吹いてくるやや西よりの風を「まぜ」と呼ぶ。もちろん漁民のつかう方言である。
 昔、漁村の調査をしていた折に、よく聞いた言葉である。仁淀川の河口にある土佐市側の道の駅は、「南風(まぜ)」と名付けられている。夏が近づく頃、魚が押し寄せて来る。親しみを込めて呼ぶ言葉のようである。
 私は、地元紙・高知新聞の木曜日の「高知の釣情報・魚信」を良く見る。それにより、釣り上げられる魚が変化することがよく解る。
 ここは、大きい波のうねりがあるのか、サーファーのメッカのように賑わっている。
 幡多郡の黒潮町には、「なぶら」という道の駅がある。佐賀漁港の近くで、「カツオのタタキ」を食べにくる人々で賑わっている。県外ナンバーの車が多い。「なぶら」とは、魚群のことである。ここは、日本一カツヲを釣り上げる漁船・明神丸を保有している。カツオ幟を空に泳がせている。
 それにふさわしい名前である。私はカツオの刺身が大好物である。年老いて、噛む力が弱ってきたが、刺身は優しい。


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2018年4月 1日 (日)

広谷喜十郎の歴史散歩 313


        花盛り

 「ひさかたのひかりのどけき春の日にしず心なく花の散るらむ」の季節になった。孫の入学の日も近い。早く咲いた桜は、花吹雪である。
 百花繚乱!どちらを向いても花盛り。近所の新高梨の果樹園でも、白い花が咲き誇っている。
 このナシは、新潟県の「天の川」と高知県の「今村秋」の交配種だとされてきた。それぞれの県名から、「新高」と名付けられた。が、近年の遺伝子解析により、「今村秋」ではなく、「長十郎」の可能性が高いと云うことがわかった。  
 しかし、高知市針木地区では、栽培方法や肥料などの研究を重ね、でっかい、美味しい甘い梨の生産に励んでいる。目下、花盛り!!
 生産量では、高知県よりも九州産が多いが、甘い汁気たっぷりの針木梨は、ブランド梨である。収穫の秋が待たれる。

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2018年3月25日 (日)

広谷喜十郎の歴史散歩 312

     相撲大好き!!

 数年前、高知県出身の栃煌山・豊ノ島の両力士が大活躍をしていた。

 孫が幼稚園から帰ってくる時間帯に、相撲放送がある。一緒にテレビを見ているうちに、彼女は相撲女子になってしまった。昨年、夏のお泊まり保育で、相撲に参加し、幼稚園のブログにも力士ぶりの姿が載ってしまった。
 その一因に、三歳になったとき、晴れ着を誂えた。そのお店が栃煌山と縁が有り、手形とサインの色紙も飾って有り、マスコット人形をいただいた。ファンレターを出したいほどになってしまった。目下、遠藤関にも夢中である。
 日本の近代における大相撲界で大きな役割を果たした人物。それは、自由民権運動の最高の指導者・板垣退助である。「国技館」という名称を決めた時にも関与している。板垣退助が逝去された折、その葬儀に相撲界から多数参列し、その棺を力士16人が担いでいる。
 
 今日千秋楽、栃煌山は残念ながら負けてしまった。

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NHKテレビの画像から


2018年3月18日 (日)

広谷喜十郎の歴史散歩 311

      春が来た

 税金の確定申告も済ませ、ほっと1息ついている。文字通り「目に入れても痛くない」孫が、今日幼稚園を卒業した。
 日本一早かった、桜の開花のニュースも嬉しい。先日、孫を迎えに行った妻が興味深い写真を写してきた。園庭のチューリップである。
 子供たちが踏み荒らすせいもあろうが、とうに咲き終わったのもあれば、未だ蕾みのかたいのもある。子供もいろいろの条件、個性の違いを認めてやらなければと、元教師の反省しきりであった。
 卒園式当日の今日、園庭のチューリップはスペアーのものが植え足され、華やかに咲きそろっていたという。これで、安心。
 卒園証書を受け、将来の夢を語ったそうな。孫は相変わらず図書館屋さんであるが、ママに直されて「図書館司書」と云ったようだ。
 小学生になったら、会う機会が少なくなる。老体は寂しい限りである。

2才入園時 
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2018年2月25日 (日)

広谷喜十郎の歴史散歩 310


       孫の夢

 孫娘がこの4月から小学校に入学する。
 食物アレルギーがあるため、給食のない学校を選んだ。母親同伴で、面接試験に臨んだ。「大きくなったら、何になりたいですか?」の発問に、「図書館屋さんになりたいです。」と答えたそうな。ママはびっくり!
 それを聞いた、元図書館職員のお祖父ちゃんも驚いた。

 オムツをしていた頃から、妻が息子達が好んでいた本を書庫から引き出して、孫にも読み聞かせをしていた。一番のお気に入りは、二世代にわたって『おさるのジョージ』である。新版も出、テレビにも登場し、ジョージは友達になってしまった。
 ママが図書館に連れて行き、自由に本を選ばせているからであろうが、本が大好きになったことは喜ばしい。知的好奇心に目覚め、たくさんの本を読みたい。ジョージのように「知りたがりや」になったようだ。
 息子であるパパが、難し過ぎる(?)と判断しても、新もの食いのオバアちゃんに添ってどんどん進化する孫である。
 週に2〜3冊のように出版し、パパとママに見せると言い、持ち帰る。オンチャンが製本してくれているミニ本に、カラーの絵と文を書いている。最近作『まみえほん・ようちえんであそぼ』。「ひらがな・かたかなひょう」を見ながら創作活動をしている。
 足が弱ったオバアちゃんを近所の高台へと、散歩に引っ張って行く。元気あふれる孫娘は、セーラー服の少女になる。
 
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2018年2月18日 (日)

広谷喜十郎の歴史散歩 309

    堺事件と祖母のこと(2)
 今回も妻の雅子が書きます。
 
 先頃、義姉と高知歴史民俗資料館へ「堺事件」の展示を見にいった。

 祖母の話は、私にだけしか知らないことであった。祖母にとっては、哀しい恥ずかしいことであったろう。

 昭和22年に高知市立江ノ口小学校に入学し、ピカピカの「デモクラシー」教育を受けた身にとって、理解できないことが多かった。巷では、「女のくせに…」が横行していた時代である。
 祖母は美少女であったが故に、担ぎ婚により町家の小倅の妻となった。私が大学を卒業し、山間部の僻地校に赴任することになった時、その地には「夜這い」の風習があると聞き、猛反対した。私は、失業の身となった。
 現代でも、哀しい事件が多々ある。

 歴史民俗資料館で、西村左平次の陣笠についた血糊・当時の短剣を見たとき、すごく悲しい気持になった。曾祖父・小坂彦之進は病死であろうが、幼い2人の娘を残して死ぬ時、どんなにか辛かったろう。    
 この時代の女は、ご祐筆という職業婦人であった祖母の叔母でさえ名前は記録に出ない。叔母は夫・西村左平次の死と共に、実家・小坂家に帰って来たと思われる。「子無きは去る」の時代である。女については、家族か身内が記さなければ歴史上「無」である。もちろん、曽祖母の名も行方もわからない。
 現代、かかあ天下・ハチキン、何といわれようが実力を持って、生きて行くことができる。孫娘も立派なハチキンに育ちつつある。
 今、幕末〜明治を生きた元ご祐筆の『叔母さん』に会いたい。

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2018年1月25日 (木)

広谷喜十郎の歴史散歩 308


     うそ替神事

 新聞の広告で、高知市の潮江天満宮で「うそ替神事」があることを知った。そして、十数年前の新聞の記事を探し出した。「土佐の自然」というシリーズで「天神様の御使鳥」として魚梁瀬の「ウソ」の写真が掲載されていた。現・山中宮司さんの「天神様(菅原道真公)は太宰府に左遷されても(嘘)をつかず、誠心を尽くした。そこから、この一年間、知らず知らずのうちに犯してしまった私たちの罪や嘘を天神様の誠に換えていただくという意味で、木彫りの『ウソ』を使い、神事をしています」の言葉があった。 
 山中耕作著『天神伝説のすべてとその信仰』を早速開いてみた。太宰府天満宮のお祭りに〈「鬼すべ」「鷽替え」という二つの神事があります。その年の幸運を天神さまにお祈りする有り難いお祭りです(略)〉。何年か前に、訪ねて天神様を偲ぶ焼き餅も頂いた。広大な太宰府の地に埋葬され、   
延喜5年(905)、御墓所の上に祀廟(しびょう)が創建され、延喜19年(919)には勅命により立派なご社殿が建立された。 その後、道真公の無実が証明され、「天満大自在天神天神(てんまだいじざいてんじん)として祀られている。学問の神様として篤く信仰されている。
 
 前述の高知新聞の記事の裏面には、学校の週休二日制が始まった、がある。かなり古いものである。記者は、岡林直裕氏・写真は島崎章氏である。


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2018年1月20日 (土)

広谷喜十郎の歴史散歩 306

      丸亀うちわ

 新年の第1号には「丸亀うちわ」を書こうと、丸亀のホテルを予約していた。初詣に足を止めた神社で興味深いことにぶつかって、団扇は今回のテーマになった。
 子供の頃から、台所で使われていた「渋うちわ」。「丈夫で長持ち」戦後日本のお題目であったと思う。JR丸亀駅に、うちわと同じく竹と和紙で作られた凧が飾られたと知り、見に行った。名物になったご当地グルメ「骨付鳥」もいただき、海岸近くのホテルに入った。
 丸亀では、団扇の全国シェアーの90%程生産されると云う。七輪・おくどは、戦後の台所の必須であった。火吹き竹・団扇が活躍していた。妻は、おくどでご飯が炊けないのは、落ちこぼれだと厳しくしつけられたと云う。(数年後には、電気炊飯器・石油コンロ、ガスが普及したが。)
 「丸亀うちわ」の技術は、江戸初期までに確立していたとされている。寛永10年になると、金毘羅参りのお土産として朱色に丸金印の「渋うちわ」作りが考案され、うちわ作りが盛んになった。平成9年には、国の伝統的工芸品に指定された。
 「伊予竹に土佐紙貼りてあわ(阿波)ぐれば讃岐うちわで至極(四国)涼しい」と唄われる丸亀うちわは、材料すべてが近隣で整えられる土地である。そして職人の手仕事による技の集大成の結果である。
 うちわは、涼を取る、料理を冷ます、炊事・起火、陽除け、虫を払うその他いろいろの用途に使われてきた。用途に合わせた形、図柄種類が存在し親しまれ愛用されてきた。
 丸亀港は、海の玄関口であり、本州および塩飽諸島とを結ぶ海上交通の要衝として重要な位置である。中世以前から天然の良港として栄えてきた。江戸時代に入っては広く信仰を集めた金毘羅参詣のための、通称「金毘羅船」の定期航路も開設され、大いに賑わった。常夜灯の役目の「太助灯籠」をはじめとする3基の大灯籠は、今も健在である。
 諸島部やこの地方の塩気の水で米飯を炊くために、土佐の発酵茶・碁石茶が好まれていた。何度も取材に行った記憶がある。


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2018年1月15日 (月)

広谷喜十郎の歴史散歩 307

     堺事件と祖母のこと

 今回は妻の雅子が、堺事件に関して、祖母から聞いた話を書きます。
 
 祖母・幸は、明治十四年(1881)年、土佐郡江の口村に生まれた。父は、小坂(おざか)彦之進。母は、?。小坂家は知行百五十石、御小姓組。堺事件より数年後、家庭は崩壊した。堺事件は、明治元年に起きている。家庭崩壊は何故か解らない。事情があったろうが、知るすべも無い。
 幸と姉は、御祐筆をしていた叔母に育てられる。
 祖母は幼い私に、「叔父さんは、堺事件の時に死んだ」という話をした。叔父さんとは?(叔母の夫であろう。)
 いろいろ探って行くと、西村左平次ではないか。左平次は家禄四十石の馬廻であった。
 
 森鴎外の『堺事件』に、〈つぎに呼び出された西村は温厚な人である。源姓、名は氏同。土佐郡江の口村に住んでいた。家禄四十石の馬廻である。弘化二年七月に生まれて、当年二十四歳になる。歩兵小隊指令には慶応三年八月になった。西村は軍服を来て切腹の座に着いたが、服の釦鈕を一つ一つ丁寧にはずした。さて短刀を取って左に突き立て、少し右へ引きかけて、浅過ぎると思ったらしく、さらに深く突き立てて緩やかに右へ引いた。介錯人小坂は少しあわてたらしく、西村がまだ右へ引いているうちに、背後から切った。首は三間ばかり飛んだ。〉
 この介錯人・小坂乾(これが曾祖父であろう)。介錯人とは、予め親しくしていた人に頼むものだそうだ。妻の兄に頼んだ可能性は大きい。

 幸は「あたごまち小町」と評判の美少女であったらしい。小学生の年齢であったが、親を亡くし、学校にも行けず近所の子守りをしながら学校の窓から教室を覘いていた。その頃、親切に助けてくれたのは「小南先生」であった。と、私は何度も何度も聞かされた。祖母の昔話は、私にだけ聞かせているようであった。女の孫は、私だけであったからかも解らないが。
 小学校は、現・江の口市民図書館の場所にあった。小南先生って?
 「享和元酉年認候を文化八未六日写」の地図によると、祖母の実家・小坂家は上の橋の北、現大川筋二丁目にあったようだ。現在、岡村病院看護師寮の辺りであろうか。近所には、小南家、山内家下屋敷があった。
 小南先生とは、小南五郎右衛門?は、明治十五年(1882)二月二十二日没である。幸は、このとき一歳七ヶ月である。何度も聞かされた言葉を実体験として刷り込まれたのであろう。
 「お殿様が鷹狩りに愛宕大橋(現)の辺りへ来られた時に抱っこしてもらった」これも当然聞かされた話であろうが、下屋敷に住んでいた分家の山内家であろう。
 終戦直後、久万川ベリ(変電所辺)へヨメナやセリを摘みに行った。そんな時、自分の生い立ちを語ってくれた。

 私も長男・孫も祖母の血を受け継ぎ、天然パーマである。もう一人・甥の娘がいる。「雅子おばちゃんに似た」と云っているが、幸おばあちゃんが元祖である。
 歴民の「堺事件」の展示を楽しみにしている。


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