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2018年1月15日 (月)

広谷喜十郎の歴史散歩 307

     堺事件と祖母のこと

 今回は妻の雅子が、堺事件に関して、祖母から聞いた話を書きます。
 
 祖母・幸は、明治十四年(1881)年、土佐郡江の口村に生まれた。父は、小坂(おざか)彦之進。母は、?。小坂家は知行百五十石、御小姓組。堺事件より数年後、家庭は崩壊した。堺事件は、明治元年に起きている。家庭崩壊は何故か解らない。事情があったろうが、知るすべも無い。
 幸と姉は、御祐筆をしていた叔母に育てられる。
 祖母は幼い私に、「叔父さんは、堺事件の時に死んだ」という話をした。叔父さんとは?(叔母の夫であろう。)
 いろいろ探って行くと、西村左平次ではないか。左平次は家禄四十石の馬廻であった。
 
 森鴎外の『堺事件』に、〈つぎに呼び出された西村は温厚な人である。源姓、名は氏同。土佐郡江の口村に住んでいた。家禄四十石の馬廻である。弘化二年七月に生まれて、当年二十四歳になる。歩兵小隊指令には慶応三年八月になった。西村は軍服を来て切腹の座に着いたが、服の釦鈕を一つ一つ丁寧にはずした。さて短刀を取って左に突き立て、少し右へ引きかけて、浅過ぎると思ったらしく、さらに深く突き立てて緩やかに右へ引いた。介錯人小坂は少しあわてたらしく、西村がまだ右へ引いているうちに、背後から切った。首は三間ばかり飛んだ。〉
 この介錯人・小坂乾(これが曾祖父であろう)。介錯人とは、予め親しくしていた人に頼むものだそうだ。妻の兄に頼んだ可能性は大きい。

 幸は「あたごまち小町」と評判の美少女であったらしい。小学生の年齢であったが、親を亡くし、学校にも行けず近所の子守りをしながら学校の窓から教室を覘いていた。その頃、親切に助けてくれたのは「小南先生」であった。と、私は何度も何度も聞かされた。祖母の昔話は、私にだけ聞かせているようであった。女の孫は、私だけであったからかも解らないが。
 小学校は、現・江の口市民図書館の場所にあった。小南先生って?
 「享和元酉年認候を文化八未六日写」の地図によると、祖母の実家・小坂家は上の橋の北、現大川筋二丁目にあったようだ。現在、岡村病院看護師寮の辺りであろうか。近所には、小南家、山内家下屋敷があった。
 小南先生とは、小南五郎右衛門?は、明治十五年(1882)二月二十二日没である。幸は、このとき一歳七ヶ月である。何度も聞かされた言葉を実体験として刷り込まれたのであろう。
 「お殿様が鷹狩りに愛宕大橋(現)の辺りへ来られた時に抱っこしてもらった」これも当然聞かされた話であろうが、下屋敷に住んでいた分家の山内家であろう。
 終戦直後、久万川ベリ(変電所辺)へヨメナやセリを摘みに行った。そんな時、自分の生い立ちを語ってくれた。

 私も長男・孫も祖母の血を受け継ぎ、天然パーマである。もう一人・甥の娘がいる。「雅子おばちゃんに似た」と云っているが、幸おばあちゃんが元祖である。
 歴民の「堺事件」の展示を楽しみにしている。


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