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2016年10月 1日 (土)

広谷喜十郎の歴史散歩 258

    京都の方広寺と土佐の関係

 二十年程前には、京都へよく行ったものだ。東山区に国立歴史博物館があり、そこで開催される特別展では、興味深いものが多々あった。
 また、周辺にも史跡があり、訪ね廻ったことが思い出される。
 その頃「土佐林業史」の仕事をしていた。博物館の敷地を含む広大な敷地は、かつて豊臣秀吉が建立した「方広寺」跡地であったことを承知していた。
 天正14年、秀吉は太閤にまで出世した。そこで、自己顕示欲が湧いて来て、「大仏殿」を建立しようとした。奈良の東大寺規模を目指したものであったらしい。
 『太閤記』によると、日本中に良材を求めたところ、「第一土佐」であった。諸国材木の中で第一番と評価されている。
 『長宗我部盛衰記』には〈元親最大切の公事なれば子息(略)を伴ひ安芸郡奈半利の成願寺山に入て〉とある。このように、元親親子揃って直接やって来て指揮を執っている。四国や九州からも山林労働者が集まったと云う。

 方広寺の跡地を訪ねると、あちこちに巨大さが窺える石垣が残っている。本殿は失われているが、後に建立されただろう小坊がある。此所で尋ねてみると、当時の大きな釣鐘は残っているとのことであった。問題の釣鐘の鐘楼を訪ねると、立派な釣鐘であった。
 「問題の…」というのは、その鐘に「国家安康」と刻記されているからである。この文字を見た徳川家側が、家康の文字を離してあるのは問題だと言いがかりをつけた。
 本来の意味はそうでないことは言うまでもないが、徳川方は秀吉亡き後に豊臣方と戦う口実を探していたのだ。やがて、戦いが始まった。
 NHK大河ドラマ「真田丸」では、これをどう扱うだろうか。

Dscf3818

    長宗我部元親像
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