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2016年4月21日 (木)

広谷喜十郎の歴史散歩 234

 
    熊本城と谷干城

 4月14日夜、熊本県を震源とする大地震があった。震源は浅かったが、震源地域では、震度7の大きな揺れであった。
 16日未明におきた震度6強の地震はM9・3で、そのエネルギーは大きくて、14日よりも16倍大きい阪神大震災と同じ程度だったと、『高知新聞』の解説記事は伝えている。16日の方が「本震」だと。
 さらに、今週になっても余震が大分県方面にまで拡がりをみせている。
 お亡くなりになった数多くの方々のご冥福をお祈りし、1日も早い地震の収束を祈念している。被害を蒙られた方々に、お見舞いを申し上げます。

 この地へは、平成14年7月に取材に行ったことがある。
 明治10年の西南戦役で、熊本城攻防戦があった。城側の司令官は、高知県人の「谷干城」であった。
 この城は、江戸時代初頭に加藤清正が7年もの歳月をかけ、築いたものである。当時は、周囲9kmの敷地に、3つの天守閣、49の櫓、29の城門などを備えた天下の名城であった。と、いう。それが西南戦役でほとんど焼失し、重要文化財の宇土櫓ほか多くの櫓や石垣・長堀などを残すのみになっていたが、今回の地震の被害が及んでいないことを祈るのみである。今の天守は、昭和35年に再建されてものであるが。
 西南の役で天下無敵と言われた西郷軍1万数千人を相手に、50日余にわたり激しい篭城戦であった。城兵は、3,500人余で西郷軍は簡単に落城できると楽観していた。政府軍は、一般人が多く初めから勝負は明らかだと考えられていた。が、谷干城の指揮の下で守り抜き、城の陥落はまぬがれた。『熊本城史梗概』によると、城兵の死傷者の総数は、2463名であったと云うから、その戦いぶりは激烈なものであった。しかも、食糧不足から死馬の肉からイヌ・ネコ・ネズミに至るまで食い尽したといわれている。
 この時、干城の妻は城兵の妻と協力し、炊事・負傷兵の看護など銃後にあって元気づけた話は有名である。熊本城内に干城の銅像が建立されている。
(昔住んでいた高知市北部の台地の近所に、谷干城夫妻の墓地があった。二つの大きな自然石が墓碑である。今頃は、白いドウダンツツジが花を散らしている頃だろう。)


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