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2016年1月21日 (木)

広谷喜十郎の歴史散歩 220

    淡路島がなぜ兵庫県に?

 江戸時代約300年にわたり、淡路島は徳島藩の支配下にあった。
 にもかかわらず、明治時代に入って兵庫県に吸収されたのは何故か。改めて考える機会をもったのは、本年の1月2日。島の南端・福良港を訪ねた時である。
 『兵庫県の歴史散歩(上)』の「福良港」の条に、この港は〈淡路きっての良港で、古くから四国阿波への渡船場で律令時代には都と四国を結んで南海路の駅家が置かれたし、江戸時代には蜂須賀氏の藩邸が置かれた。また、最近まで四国と淡路を結ぶ汽船の発着場となるなど長らく淡路の玄関としての役割を果たしてきた〉とある。この港は古代から、更に江戸時代の蜂須賀家の支配地として栄えてきたというのである。
 それが明治2年の版籍奉還のなかで、島の洲本で「稲田騒動」という大きな事件が勃発し、変化をみせる引き金となることになった。洲本の淡路城・城代の稲田家の家来は、士族扱いされず、全部浪人の卒族とされてしまった。稲田家の家臣たちは、士族にすべきだと主張したが認められなかった。 
 更に、新政府に直接嘆願したり、分藩すべきだとの動きに出た。
 翌年5月13日洲本にいた蜂須賀家の家臣たちは、稲田家の屋敷や長屋などを襲撃した。稲田家側は、即死17人、自決2人など多くの犠牲者を出した。蜂須賀家側も10人が処刑された。
 この事件が因で、島は兵庫県に編入された。稲田家は北海道へ移住させられている。作家・船山馨は、この事件をもとに『お登勢』という小説を書いている。
 今では、この港から蒸気帆船「咸臨丸」(復元船)を観潮船・うずしおクルーズとし、観光客を集めている。淡路人形座・「淡路人形浄瑠璃資料館」を設け、かつての徳島との繋がりを示している。
 淡路島と徳島県が手を繋いで、「鳴門の渦潮を世界遺産に」という動きが
始まっている。
 淡路島の自動車のナンバープレートは、「神戸」である。

淡路島の初日の出

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