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2015年3月 5日 (木)

広谷喜十郎の歴史散歩 174


   ひな祭り

 “あかりをつけましょ ぼんぼりに お花をあげましょ 桃の花
五人ばやしの 笛太鼓 今日はたのしい ひな祭り…”
 女なら誰でも歌ったこの歌。サトウハチロウの作詞だと言う。女子校出身の私は、作法室に飾られていた段飾りを思い出す。
 私の段飾りは、戦火で灰燼と帰した。満4歳であった私は、焼夷弾の降りしきるなかを祖母に手を引かれ、家族と共に疎開先である土佐山を目指した。
 田圃のあぜ道を必死で歩いた。田圃の用水路には、布団をかぶった人があちらにもこちらにも倒れていた。焼夷弾が燃えていた。
 久万川にかかる橋は焼失したのか、地元の方が丸木橋を架け、渡るのを手助けして下さった。
 こうして、疎開先の土佐山村網川に無事についた。たった一つ手元に残った人形は、先に疎開していた「いちまさん」だけ。だっこして遊んだせいか、壊れていつかなくなってしまった。

 日本有数のお金持ち・三菱財閥の創立者岩崎弥太郎の孫娘の沢田美喜さん。聖書に出会って、その生涯の道を選ぶ。クリスチャンで外交官の沢田廉三氏と結婚し、海外の国情を知る。
 そして、戦後の日本。敗戦の悲しみのなかにも、平和を噛み締めていた。
 一方、新たな悲劇も生まれていた。捨てられる混血児の急増。

 田舎の高知でも、進駐軍のジープの後を追ってチョコレートなどをせがむ子供たち。ゴム風船だと思っている手には、避妊具のコンドーム(大人になってから解ったことだが)が握らされる。ジープを追っては行けない。と、親からきつく言い渡されていた。どんくさい私は、何にももらってはいなかったが。

 沢田美喜さんは、誰も手を差し伸べようとしなかった戦争孤児・混血孤児の救済に乗り出した。

 私が中学生時の担任教諭・英語教師であった彼女は、戦後軍政部に徴用されたようだ。時たま漏らす言葉の端に進駐軍の横暴さが見えていた。

 沢田美喜さんのことは、新聞で知ったと思う。まず、ひな人形など自分の持ち物を手放した。そして、エリザベス・サンダー女史の遺産を贈られ、エリザベス・サンダーズホームの設立。ジョセフィン・ベーカー等の協力を得て、不孝な生い立ちの子供たちに光を与え続けていった。
 2月23日付の高知新聞「今週のあの日」欄に、〈進駐軍兵士と挙式 日本人女性「戦争花嫁に」〉という記事を見つけた。彼女、幸せになったかな。

 香川県三豊町の旧仁尾町では、戦国時代の特殊事情のため八朔にひな人形を飾るという。兵庫県の室津地区でも同じく。
 平和な時代を嬉しく思う。孫の人形は小さいけれど、元気に成長しているのが爺・婆の楽しみです。
(今回は、妻の雅子が書きました。)

写真は、名古屋のデパートの飾りです。


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