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2015年2月20日 (金)

広谷喜十郎の歴史散歩 172

  坂本龍馬とブーツ(2)

 神戸の勝海舟の海軍塾は、幕府により解散された。それで、坂本龍馬は一時行き場を失った。
 それを救ったのは、薩摩藩であった。慶応元年閏5月、その支援を受けて長崎亀山社中という商社を組織した。社中の8人の給料は、龍馬を含めて全員が同じく、金3両2分が毎月支給されていたという記録がある。
 これについて、宮地佐一郎氏は『龍馬百話』(文藝春秋社)のなかで、現在の金額にして26~27万円だろうと見ている。
 前号で紹介した睦奥宗光は、出身地の紀州藩でも若い留学生8両から10両くらいもらえるのに、あまりにも安いと、不満の声を上げた。そこで、龍馬は〈不足するなら、あとは自営の功をとれ〉と、言ったという。それは、自分の力で稼げというのであろう。
 なお、新撰組の隊長は50両、副隊長40両、幹部クラス30両、隊員は10両だったというから、亀山社中はいくら財政事情が悪いとはいえ、皆平等の3両2分であったとは、大きな驚きである。

 そんなきびしい状況のなかにあっても、社中の若者たちは、諸藩の物品の交流を計り、いくつかの業績を上げていく。龍馬のブーツ姿に見られるように、軽装で行動していたと思われる。
 元饅頭屋の近藤長次郎という人物は、直接西洋人と接触して活躍するなど、大きな仕事をしている。通訳する人物がいたとしても、英語力を身につける必要があったから、さぞかし苦労したことであろう。
 後に、土佐海援隊を組織しても、英語を勉強することはより重要になる。
 そこで、海援隊で『和英通韻以呂波便覧』という英語入門書を刊行している。隊長の龍馬もまた同じ思いをもっていたようだ。

 このような動きをみていくと、龍馬は確かな英語力を身につけ、海洋型の貿易立国を目指す近代的国家を創ることを志向していたのである。
 そこで、高知市桂浜の海に向かって立つ、ブーツ姿の龍馬像を見ると、その意志が見事に表現されている。

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