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2014年11月 6日 (木)

広谷喜十郎の歴史散歩 156


 土佐七色紙と新之丞の悲劇

 江戸時代後期の『南路志』によると、慶長年代に土佐和紙の祖と言われた安芸三郎左衛門と養甫尼とが七色紙を考案した。そして、新藩主・山内一豊に献上した。それ以後、「御用紙」に指定され、厚く保護されたと、記述されている。
 何故か? ここでは、七色紙を考案し、その作り方を教えたという伊予の旅人・新之丞(彦兵衛)の名は出てこない。この製紙法が藩外に漏れることを恐れ、何と彼を惨殺したという伝承が今も強く語り継がれている。
 その悲劇の場所である吾川郡いの町の仏ガ峠には、彼の供養のため石仏が建立された。大正5年には、「紙業界の恩人 新之丞君碑」がある。
 また、峠付近には、彼の亡霊のたたり話もいくつか伝えられている。
  
 江戸時代初期から、いの町を中心に製紙業が発展するようになった。24人の紙すき人に、江戸幕府への献上紙や藩主用の「御用紙」を漉かせた。彼らは、御用紙漉きとして、特別の保護を受けた。が、厳しい監督下に置かれ、製品を他に売却したり、紙漉人が国外への旅行も禁じ、さらに縁組みにまで干渉するという徹底した秘密主義がとられた。
 往来で御用紙の荷物がさしかかると、武士でさえ道を譲り、敬意を表し、ましてや沿道の庶民たちは、低頭し見送ったといわれる。
 七色紙とは、「黄色・紫色・浅葱色・柿色・桃色・萌黄色・青土佐紙の七種類の色紙である。
 封建時代には、何かと秘密主義がとられ、新之丞伝承が生きていた時代でもあった。

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