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2014年10月31日 (金)

広谷喜十郎の歴史散歩 155 

   碁石茶街道を行く(3)

 次に、川之江から観音寺へ向けて行く。やがて、琴弾八幡宮のある小山があって、その頂上からすぐ下の浜辺に目をやると、とてつもなく大きな「寛永通宝」の銭形を彫り込んだ風景が広がっている。
 参勤交代の折、山内公もこれを目にし、さぞかし驚いたことであろう。この近所に藩主の休憩所もあったことは、確認されている。
 そして、海岸沿いの道を進むと、三豊市仁尾町の賀茂神社に到着する。

 平成3年秋、仁尾町の神社の世話役の河田七五三一氏にお会いする機会があった。土佐との関係深い、この神社の由緒記念碑を建立したので、ご挨拶とのことであった。その由緒書の中に、〈享保3年土佐藩主・山内豊隆が参勤交代の砌初めて当浦よりして以来年々祭祀料を寄進された〉と書かれている。
 以前から仁尾町との関係を調べていただけに、嬉しいニュースであった。
 『角川日本地名大辞典・香川県』によると、〈茶は元禄年間頃から土佐国豊永郷近辺より碁石茶(発酵茶)を買い入れ、仁尾茶として瀬戸内海沿岸に売りさばく。江戸時代末期には茶商家18軒があり、盛況であった〉とか、〈仁尾茶の普及のきっかけとして、土佐藩山内氏の参勤交代(略)享保元年ころ土佐の北山から立川を経由して仁尾(保)に出、ここから瀬戸内海路を利用するルートが土佐藩の交通路として採用されるに至った。この縁故から仁尾商人の土佐茶買付け、専売が許可され、仁尾茶発展の基が築かれることになった〉と記述されている。

 このようなことを踏まえて『大豊史談 20号』に、碁石茶のことを書いた。当時の仁尾町長・山地宏氏の先祖が碁石茶を取り扱って財をなした、かつての茶問屋であったが、山地氏は碁石茶を見たこともないとのことであった。その後、町長一行が大豊町を訪ねている。

 河田さんもまた、碁石茶の茶粥に深い思いを持っていた。早明浦ダムの完成以前、真水は貴重品であったらしい。毎朝米を海水で洗い、碁石茶を入れた茶粥にしていたという。瀬戸内地方に碁石茶が広まったのは、こんな理由もあったようだ。
 高松市内の知人によると、早明浦ダム以前家を建てる前には、まず井戸を掘る。これが必須条件であったという。

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