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2014年5月16日 (金)

広谷喜十郎の歴史散歩 130

   仁淀川の八田堰

   4月末から5月初旬にかけて、高知市郊外の田園地帯では緑色の山々に混じりながら、椎の木々が黄金色の花を満面に開花させている。普段はあまり気に留めることはないが、椎の木がこんなにも沢山あるのかと驚いてしまう。
 田植えを終えた田圃は、すっかり落ち着きを見せている。初夏の風景になっている。

 此の頃、仁淀川下流域に出かけることが多い。400年程前には、未開拓の土地であった。
 江戸時代初期に登場した土佐藩家老・野中兼山は、新田開発を行う。そのため、全藩的な規模で各河川に堰を設け、用水路を通すなどの土木工事を積極的に行う。
 仁淀川は、東は吾川郡〜西は高岡郡を流れる大河である。
 兼山は、川の東岸を開拓するために慶安元年(1648)に八田堰を、
万治元年(1658)に西岸を開拓するため鎌田堰を、それぞれの築堤を開始した。
 彼は、河川の中央部をせき止める為〈「四つ枠」工法といって大きな四つに組んで“ぬき”を通し、石を入れて岸の両端から順に沈めて工事を進めていきました〉(『伊野町の文化財と旧跡』)と言う特別な工法で行った。
 それでも、中央部は水勢が厳しく、洪水の度に崩壊し困っていた。土地の古老の勧めで、1筋の長い縄を流し、水勢に逆らわない弓が張った湾曲形の「長縄流」で築造し、成功したといわれる。
 6年間かけて、石堰の長さ415m、幅19mという大きな堰を造った。この堰は、昭和初期に原形を生かした形で大幅に改修され、現在も利用されている。

 この堰から長さ16km余りの弘岡井筋などを造り、浦戸湾に注いでいる。この結果「土佐のデンマーク」といわれる862町歩の良田を開拓することができた。方面の林産物などをこの用水を通じて、浦戸湾へ運んでいる。

   歴史散歩 130    仁淀川の八田堰

   4月末から5月初旬にかけて、高知市郊外の田園地帯では緑色の山々に混じりながら、椎の木々が黄金色の花を満面に開花させている。普段はあまり気に留めることはないが、椎の木がこんなにも沢山あるのかと驚いてしまう。
 田植えを終えた田圃は、すっかり落ち着きを見せている。初夏の風景になっている。

 此の頃、仁淀川下流域に出かけることが多い。400年程前には、未開拓の土地であった。
 江戸時代初期に登場した土佐藩家老・野中兼山は、新田開発を行う。そのため、全藩的な規模で各河川に堰を設け、用水路を通すなどの土木工事を積極的に行う。
 仁淀川は、東は吾川郡〜西は高岡郡を流れる大河である。
 兼山は、川の東岸を開拓するために慶安元年(1648)に八田堰を、
万治元年(1658)に西岸を開拓するため鎌田堰を、それぞれの築堤を開始した。
 彼は、河川の中央部をせき止める為〈「四つ枠」工法といって大きな四つに組んで“ぬき”を通し、石を入れて岸の両端から順に沈めて工事を進めていきました〉(『伊野町の文化財と旧跡』)と言う特別な工法で行った。
 それでも、中央部は水勢が厳しく、洪水の度に崩壊し困っていた。土地の古老の勧めで、1筋の長い縄を流し、水勢に逆らわない弓が張った湾曲形の「長縄流」で築造し、成功したといわれる。
 6年間かけて、石堰の長さ415m、幅19mという大きな堰を造った。この堰は、昭和初期に原形を生かした形で大幅に改修され、現在も利用されている。

 この堰から長さ16km余りの弘岡井筋などを造り、浦戸湾に注いでいる。この結果「土佐のデンマーク」といわれる862町歩の良田を開拓することができた。歴史散歩 130    仁淀川の八田堰

   4月末から5月初旬にかけて、高知市郊外の田園地帯では緑色の山々に混じりながら、椎の木々が黄金色の花を満面に開花させている。普段はあまり気に留めることはないが、椎の木がこんなにも沢山あるのかと驚いてしまう。
 田植えを終えた田圃は、すっかり落ち着きを見せている。初夏の風景になっている。

 此の頃、仁淀川下流域に出かけることが多い。400年程前には、未開拓の土地であった。
 江戸時代初期に登場した土佐藩家老・野中兼山は、新田開発を行う。そのため、全藩的な規模で各河川に堰を設け、用水路を通すなどの土木工事を積極的に行う。
 仁淀川は、東は吾川郡〜西は高岡郡を流れる大河である。
 兼山は、川の東岸を開拓するために慶安元年(1648)に八田堰を、
万治元年(1658)に西岸を開拓するため鎌田堰を、それぞれの築堤を開始した。
 彼は、河川の中央部をせき止める為〈「四つ枠」工法といって大きな四つに組んで“ぬき”を通し、石を入れて岸の両端から順に沈めて工事を進めていきました〉(『伊野町の文化財と旧跡』)と言う特別な工法で行った。
 それでも、中央部は水勢が厳しく、洪水の度に崩壊し困っていた。土地の古老の勧めで、1筋の長い縄を流し、水勢に逆らわない弓が張った湾曲形の「長縄流」で築造し、成功したといわれる。
 6年間かけて、石堰の長さ415m、幅19mという大きな堰を造った。この堰は、昭和初期に原形を生かした形で大幅に改修され、現在も利用されている。

 この堰から長さ16km余りの弘岡井筋などを造り、浦戸湾に注いでいる。この結果「土佐のデンマーク」といわれる862町歩の良田を開拓することができた。この流域に新川町が設けられ、仁淀川方面の林産物などをこの用水を通じて、浦戸湾へ運んでいる。

 
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