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2014年4月12日 (土)

広谷喜十郎の歴史散歩 125

  高智山四百年

 受験など試練の時、神様・仏様にお願いすることがよくある。
 高知市五台山の竹林寺は、御本尊が智恵の文殊さまであるから、受験生やその家族
がよく訪れる。
 その文殊菩薩像は、秘仏であり、通常拝観できない。今年4月下旬は、50年に一
度の御開帳にあたる。
 私は、昭和58年5月、竹林寺文殊堂で御本尊の特別開帳に拝観できる機会を得た。
 『山内氏時代史初稿』の慶長15年(1610)9月の条に〈山内忠義竹林寺ノ僧空鏡
ヲシテ河中(こうち)山ノ文字ヲ改メシメ高智ト称ス〉と、ある。河中山の築城中、二
代藩主・山内忠義が空鏡和尚に頼み、山名を高智山と改名したものである。

 慶長6年に土佐に入国した新領主・山内一豊は、大高坂山に築城を開始、同8年に
入城式を行い、河中山と改名した。築城工事は着々と進行して行くが、2つの河川に
挟まれた城下町造りは洪水に襲われ困難を極めた。
 空鏡和尚は忠義との問答のなかで、〈高智とは大聖文殊の浄土を申(略)されば此
城地も文殊仏護の地と称して、高智山と名付たり〉(『土佐物語』)と、その改名の理
由を述べている。
 築城や町づくりに、文殊さまの高い智恵を借りなさいと言うのである。そして「河
中」と「高智」は同じ字音である。そこから更に、現在の高知に転じたことになる。
 いつ頃から、高智から高知が使用されるようになったのか判っていない。智の字の
下の「日」を飲んでしまったという笑話も伝わっている。

 やがて、高知城が完成し、城下町づくりも着々と進んだ。元和7年(1621)〈土佐
守殿借銀今の分にて御身上相果つべく候〉(『藩志内篇』)と言わしめるほどに切迫した。
が、藩政改革により財政状況を見事に立直している。

 今年は、文殊さま御開帳の年に当るので「高智」の原点に還り、智恵を生かした社会
づくりを考える必要がありそうである。

Dscf2315


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