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2014年3月14日 (金)

広谷喜十郎の歴史散歩 121

   ジャガイモの話

 現在、高知県立美術館でミレー展が開催されている。その中の一枚「馬鈴薯植え」がある。
 ミレーを崇拝したゴッホの初期の代表作に「馬鈴薯を食べる人々」がある。ランプを灯したほの暗い食卓で家族がジャガイモを囲んで和やかな顔をほころばせている。

 10年程前に、北海道函館近郊の七飯町を訪ねた。
 高知市旭町出身の川田龍吉(1856~1951)は、父・小一郎(後の第3代日銀総裁)の意向でイギリス・グラスコー大学へ留学する。造船工学や船舶機械に精通した技術を習得するためであった。
 小一郎は、三菱会社で岩崎弥太郎を補佐する立場にあった。龍吉を三菱から整備の為に英国へ回送される船の船員として、喜望峰回りの航海実習を兼ねて、送り出した。「かわいい子には旅をさせよ」を地で行く方針をとったのである。
 その地で、龍吉は〈夜分の事であるが、大きな車を引きながら、ホキーポキーホキーポキーといふて売っていたから、買ふてみた。それがジャガ薯の焼いたもので(略)皮つきのままでなかなかおいしかった。〉と、自身が書き残している。

 丁度今、種苗店で種芋を販売している。「男爵イモ」、「メークイン」、「キタアカリ」など。
 
 1908年、川田男爵が輸入した種苗リスト・馬鈴薯の項を見ると、Potato Seed,s「Sutton’s Flour ball」他の3種の種芋(男爵自筆のノートが残されている)1月28日に、イングランド レデイング(バークシャ—地方)のサットン父子商会へ、キャベツなどと共に取り寄せている。
 それを栽培していた畑(七飯農場)から分与されるなどと共に、捨てられている種芋を持ち出して広まっていった。
 順調に育ったイモは評判がよく、内地(本州)へ種芋としても出荷されるようになった。農場の従業員は、名前がわからなかったから「男爵イモ」と名付けて出荷した。彼は、それを嬉しく思っていたに違いない。
 大正初期以来、凶作や不況、戦中・戦後の食糧難の時代に、恩恵を受けたこの芋と、それを導入・栽培して普及のきっかけを作った川田男爵に感謝・敬愛の念をこめて北海道農業会では記念碑を建てた。
「男爵薯を讃ふ」(函館市五稜郭公園)。
「男爵薯発祥の地」(七飯町鳴川、元川田家清香園農場跡)。


 
 
 
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