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2013年10月19日 (土)

広谷喜十郎の歴史散歩 100

 鳴門市・ドイツ館と大麻比古神社

 去る10月11日、高知市文化協会主催の「大塚国際美術館・ドイツ村方面史跡めぐり」に行った。
 ドイツ村公園に在るドイツ館のパンフレットには、「ここは第9のふるさと・不思議・夢空間BANDO」の表題を付けて、第1次対戦中に〈約1,000人が1978(大正6)年から1920年までの約3年間を坂東俘虜収容所で過ごし(略)地域の人々は俘虜たちの進んだ技術や文化を取り入れようと
牧畜・製菓・西洋野菜栽培・建築・音楽・スポーツなどの指導を受け(略)ドイツさんと呼び(略)交換風景があたりまえのように見られるように〉なった。と、紹介されていた。
 このような奇跡的な不思議な世界が、100年程前に実現したのはなぜか。
 日露戦争を舞台にした大作『坂の上の雲』を書いた司馬遼太郎は、『街道を行く・阿波紀行』(朝日新聞社)のなかで、〈日露戦争のときは、愛媛県松山の捕虜収容所が世界的に有名になった。(略)ロシア軍にも伝わってロシア軍陣地からか“マツヤマ、マツヤマ”と叫んで投降してくる兵が多かった(略)この時期までは日本はこうした面で優等生だった(略)いま一つよかったのは、阿波がお遍路さんの巡礼地だった(略)この土地には客人(まろうど)を大切にする伝統があった〉と述べている。
 林啓介氏は、「第9の日本初演は徳島県だった」(「潮」july2,000 )のなかで〈松江所長以下収容所幹部の人間性である(略)松江豊寿は戊辰戦争に敗れ、賊軍として下北の斗南に流され、維新にも辛酸をなめた会津出身であった(略)「武士の情け」を口癖に居ていた彼は失意の俘虜を思いやった(略)副官でドイツ語に堪能な高木繁大尉もまた有能な人物だった(略)通訳なしでドイツ人と豪快に渡り合い、彼らから畏敬されていた。木越二郎中尉はもっぱらカウンセラー役に徹した物静かな(略)将校や俘虜たちの悩みに耳を傾け、よき相談相手と慕われ〉ていたという。
 さらに、林氏は、松江所長の長男・智寿氏の証言を記録した『会津史談会誌』のなかで〈坂東の村の鎮守の祭りには、収容所から解放された約1,000名のドイツ人俘虜でごったがえしの有様だった。村人はドイツ語で演じられるコミックな芝居を見て笑いさざめいたり(略)ベートーベンやモーツアルトの曲の演奏に厳粛な顔をして耳を傾けていた(略)氏神に奉納される舞いを笛や太鼓を物珍しそうに見たり聞いたりした(略)村人より俘虜の方がはるかに多かった(略)一寒村の祭に、村人と俘虜がすっかり解け合って楽しんでいた〉と、述べている。
 この舞台は、大麻比古神社であったことは言うまでもない。軍部の上層部と繰り返し対立していた松江所長は、一定の条件をつけてはいるが、「見張り・お供のいない」遠出に許可をあたえている。また、朝夕の散歩を認めていた。彼らにとって、かけがえのない憩いの散歩道は、約10分程の広大な鎮守の森・大麻比古神社の境内であった。
 彼らは、帰国前に感謝の気持を込めていくつかの「ドイツ橋」を建設した。
 隣地には、友愛・互助・平和のために生涯を捧げ、ノーベル平和賞や文学賞の候補に、数度なった賀川豊彦の記念館がある。
 また、道の駅「第9の物産館」があり、ソーセージやザワークラウトなどドイツ製品を売っていた。
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