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2013年9月20日 (金)

広谷喜十郎の歴史散歩 96

   三春の恩人・美正貫一郎
 
 先号で戊辰戦役に、三春町出身の河野広中が土佐軍の隊員として参加したことを書いた。今回、その事情を紹介しておきたい。
 その時期の三春藩は5万石の小藩で、仙台や米沢などの大藩の意向に引きずられ、西軍に対抗する同盟に参加していた。
 そんな状態の中で、西軍の進出の事情を知った河野一族等は、それを迎える工作をおこなっていた。
 そこへ土佐軍がやって来て、平和的に開城させることができた。平尾道雄著『土佐百年史話』には、〈この無血開城には河野一族と土佐藩断金隊長美正貫一郎とのあいだに相互理解と周旋が秘められていた〉と、述べている。すぐに、河野等は貫一郎の断金隊に参加した。
 昭和51年11月に福島県を訪ねた折、県議会で河野広中の資料展を開催中であった。印象的であったのは、「土佐断金隊 河野信治郎広中」と明記された肩章や錦裂が展示されていた。

 美正貫一郎は、医師・下村惇斉の次男として生まれ、23歳で高知城下南奉公人町(現・上町)の徒士格・美正家を継いだ。戊辰戦役で東山道征討参謀の乾(板垣)退助の下で参加。信州甲府城を無血占領した時、甲州人の中に土佐軍に協力する「断金隊」等の別動隊ができた。この折、断金隊の隊長になった貫一郎の働きもあり、治安状態は極めて良好であったと云う。
 貫一郎は、『高知県人名事典』によると〈思愛よく部下を掌握し(略)各地の探索を宣撫工作を続けて北上した〉と言われる活躍をした。更に、福島方面にまで来た土佐軍は〈貫一郎の献身的な周旋によって奥羽越列藩同盟の一角であった三春藩の無血開城が実現し〉たというのである。
 三春では、西軍に対して協力していた勢力が多かったにもかかわらず、一部には反抗する勢力も存在した。そこで、三春藩庁では貫一郎の協力を求め、滞留を土佐軍側に伝えていた。これを聞いた土佐軍の高官の1人が〈貫一郎は医者あがりだ。さては戦場に臆したとみえる〉との放言をした。それを聞いた貫一郎は、この時既に死を覚悟していたらしい。と、言われる。断金隊を率いて先頭に立ち、阿武隈川に馬を乗り入れたところ、対岸から敵軍から狙撃され、水中に転落した。後続の兵士達が救出しようとしたが、急流に押し流され見失った。遺体は発見されず、三春の士民により、岸辺に祠が建てられた。「美正明神」として、香華が絶えることがなかった。
 その後も戊辰の戦火から救った恩人として、貫一郎の功績は語り継がれている。 
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