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2013年8月 3日 (土)

広谷喜十郎の歴史散歩 89

   天誅組150年と土佐

 高知市潮江の要法寺の門内すぐ右側、円形の台座に「大和殉難烈士之碑」と刻記された石碑がある。裏面には、「明治28年12月」、「施主山崎富女」とある。
 これは、幕末・文久3年(1863)8月、奈良県でおきた「天誅組の変」で犠牲になった人たちを供養するため建立されたものである。
 天誅組に参加した土佐人は、17名である。戦死者が6名、捕えられ京都の六角の獄で処刑されたものは7名であった。脱出者は4名であったが、維新後まで生き延びたのは伊吹周吉(石田英吉)だけである。
 英吉は、慶応2年に龍馬の海援隊に参加して活躍。戊辰戦役では、奥州鎮撫督府参謀として転戦。維新後は長崎県令、千葉、高知県知事などを歴任。貴族院議員、男爵となった人物である。
 『高知県人名事典』(高知新聞社)の「山崎久三郎」の条によると、勤王心の厚い上方・堺の富商で〈天誅組の挙兵・大和五条の変に家財を投じて援助し、挙兵が敗れたのち捕えられたが許された〉とある。その妻が富女で、夫を助けて家を守り抜いている。
 明治9年に久三郎没後、石田英吉らが、その恩返しに高知城下へ迎え、鏡川河口の稲荷新地に梅花楼という料亭を営業させている。 
 山崎久三郎と富女の墓は、潮江の妙国寺の直ぐ上にあり、富女は明治37年9月25歳で没す。と、刻記されている。
 奈良で起きた「天誅組の変」として遠くの出来事と思いがちである。身近にそれを語る史跡のあることを知っていて欲しい。
 今年は、天誅組150年である。
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