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2013年7月14日 (日)

広谷喜十郎の歴史散歩 86

   板垣死すとも・・・

 日本の自由民権運動の最高指揮者・板垣退助は、大正8年7月16日、83才で病没した。
 高知の財団法人・板垣会では、彼の業績を偲び、毎年7月中旬に供養祭をおこなっている。
 町内の商店街では、彼の肖像画の入った旧百円札を釣り銭に利用するなど、話題作りをしている。
 何といっても退助を有名にしたのは、明治15年4月6日の事件であろう。岐阜市の中教院で刺客に襲われ、鮮血にまみれながら「板垣死すとも自由は死せず」と、叫んだことであろう。
 この時期は、5月に海南自由党が結成され、植木枝盛が京都で酒屋会議を開催した。7月には、「高知新聞」と「高知自由新聞」の新聞葬などが行われる。自由民権運動が最高潮に達した時期である。
 これらの動きのなかでも、日本中を興奮の渦に巻き込んだのは、退助の遭難事件であった。
 「板垣君遭難報」と名付けた瓦版のチラシが、1週間後の4月13日に京都の尾崎政次郎という印刷屋が刊行し、全国に配布された。その反応の早さに驚かされる。それだけ国民の眼がこの事件に集中していたことを物語っている。
 さらに、「板垣君遭難之図」という3枚続きの大型錦絵が4月20日刊行されて大評判になっている。この事件により、退助は自由民権運動のシンボル的存在になったと言える。これがきっかけとなり、民権運動は発展していく。
 ところが「板垣死すとも」の文言は、本人が言ったものではなく、側近の内藤魯一辺りが、脚色したものであろうとの説があった。戦後になり、発見された当時の明治政府側のスパイの報告書『探偵上申書』によると、〈玄関前ニ於テ狼狽セシ人語アリ(略)何事ナラント玄関に、駆付視レバ、板垣ハ東面シテ起チ、其左側ヨリ出血スルトキ、吾死ストモ自由ハ死セントノ言ヲ吐露〉と、生々しく報告している。
 日本史に残る板垣の文言は、本人が口にしたのは、間違いない事実である。

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