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2012年9月26日 (水)

広谷喜十郎の歴史散歩 42

  絞り染めの町
   
 名古屋市の緑区有松町へ行ってみた。絞り染めが産業になっている。どの店も絞り染めの暖簾が看板として吊るされている。名古屋市長・河村氏は、夏場は絞り染めのシャツを着用している。この度の新党結成の集会でも。
 有松町は、旧東海道の宿場町・40番鳴海の手前(江戸寄り)の間の宿である。休憩を目的とする茶屋集落として、慶長13年(1608)に設けられた。宿場町に比べて経営が苦しい為、副業として絞り染めが始められた。材料の木綿は、移住してきた人々のふるさと・知多郡から。絞りの技術は、名古屋城築城の助けにきていた九州豊後の国の人が伝えた。
 天明4年(1784)の大火で、有松の町がすべて焼失した。商家の財力と尾張藩の援助によって、耐火性の強い塗籠造りの商家が再建された。そして、絞り問屋の町として一層発展する。現在も重厚な建物群が並んでいる。
   
 絞り産業の最盛期・昭和初期に、職人は10万人を超えていたというが、現在は後継者問題が深刻になっているという。絞り会館を見学し、職人さん(いずれも高齢者)にお話をうかがった。
 「現在の若い人は、縫い方が出来ない」という。昭和30年頃までは、家庭科の授業で男女とも「運針」が必須であった。40年代生まれの我が家の息子もセット教材でやっていたような。
 よっぽど奇特な(?)若者がやる気を持ってくれなければ、復活できない。外国の安い労働力を当てにするように成るのだろうか。妻はミシン縫いで、絞り染めを出来ないことは無い、という。河村氏着用のシャツ程度のものは。複雑な文様のものは、手縫いによるしかないらしい。
 ここは、完全に高齢者の町である。夏場には、ショーウインドウには、絞り染めの浴衣・ネクタイ・シャツ・ブラウス・小物類が並んでいた。
 正倉院御物にも、三纈(臈纈・纐纈・挟纈)の裂地が残されている。いなせなねじり鉢巻の豆絞りも有松で作られている。


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