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2012年9月 9日 (日)

広谷喜十郎の歴史散歩 40

兼松林檎郎と南海地震

 本年6月28日付『高知新聞』に、「県内青年団活動の祖、兼松林檎郎顕彰を」、「四万十市有志が墓参り再開」という記事が掲載された。
 彼は、終戦直後の昭和21年に、〈幡多郡の若者に呼び掛けて連合青年団を結成。同年の南海地震では、甚大な被害を受けた中村町(現・四万十市)への救援物資の運搬や家屋の修復に奔走した〉と、いう。
 私は、『北幡青年大会史』をまとめる折に、「土佐青年史」のなかに、兼松団長の紹介記事を書いた。

 昭和21年2月、県当局の青年団担当の視察員が中村町の女子青年団を視察するためにやって来た。その折、中村の青年団は男女合同の青年団になっていたので、兼松団長らは「中村の青年団は、何も県とは関係ないので視察を拒否する」との申し入れをして断っている。
 その年の12月21日に、南海大地震が起きた。
 丁度、その時兼松団長は、高知市に滞在していた。県当局は、海路で四万十川河口の下田まで救援物資を運送することにした。そこから中村までの輸送方法が無く、困っていた。それを聞いた兼松団長は、〈下田から先は、青年団が責任を持って人海戦術で輸送しますので、一刻も早く送ってもらいたい〉と、西村知事に申し入れた。救援物資を積んだ船に乗り、下田へ帰った。
 中村へ帰着した兼松団長は、青年団を総動員して、物資の輸送に当たると共に、瓦礫化した町の取り片付けを行うなど、大活躍をした。
 中村町や周辺の青年団の活躍ぶりには、目を見張るものがあった。平常から自主的な行動を取っていたからこそ、出来たと言える。県庁の職員にへりくだること無く発言出来たのも、彼を支えていた団員の団結力の強さがあったからこそであろう。

 昭和22年7月13日に、高知県連合青年団が高知市で結成された折、初代の連合青年団長に兼松氏が選出されている。
 その時の式辞を読んでみると、リンカーンの「人民の、人民による、人民のための」の名演説ばりの格調高いものであったと、言える。
 また、私も昭和25年頃に安芸郡の小さな村で、青年団長を経験している。兼松さんは憧れの人であった。
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