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2012年8月 6日 (月)

広谷喜十郎の歴史散歩 35

 板垣退助銅像と北村西望
 
 毎年、8月になるといつも思い出すことが多い。広島と長崎で、アメリカの原子爆弾の投下により一瞬に市街地が焦土化し、何十万人の犠牲者が出たこと。私自身にしても、3月10日の東京での大空襲により、同級生のほとんどは、亡くなったようだ。絶対に忘れられない思い出である。
 昭和30年、犠牲者の供養と、復興を祈願して「平和祈念像」が製作された。この力量感ある平和の像を作り上げたのは、北村西望である。
 なお、文化勲章受章者として、日本彫刻界では知られた人物である。

 昭和57年春、子供たちを連れて東京へ行った。その折、衆議院憲政記念館のご好意により、国会議事堂の中央大広間にある板垣退助の銅像と対面した。
 銅像の大きさは、2m26㎝で、1m60㎝の台座に立つ。実に堂々とした立派な見事なものである。
 これは、昭和13年2月10日、日本憲政50周年を記念し、大隈重信・伊藤博文と共に憲政功労者として選出され、銅像の除幕式がおこなわれた。貴族院との関係で伊藤は参議院側に、政党関係者ということで大隈は衆議院側の右に、板垣はその左に建てられた。ただ、四画の一角葉、空所になっている。気になり、憲政記念館の方に聞いてみると、戦後になりその場所に、吉田茂像を建ててはという意見もあったが、いつの間にか沙汰やみになったという。
 なお、板垣は議員歴がないが、当時の衆議院議長が高知県人の富田幸次郎であった。郷土の先輩・板垣像に、1段と力を入れたのではないかと、いわれている。
 この板垣像を制作したのが、北村西望である。
 だが、この像について、若干のトラブルがあった。国会の中央広場は、開院式に天皇陛下が通られる。そこに、銅像であっても、ポケットに手を入れた姿は不敬である。けしからんということである。制作者は、心を込めて製作した銅像を勝手に手直しすることは、芸術家の良心が許さないと、きっぱり断ったという。
 北村西望『百歳のかたつむり』によると、憲政の神様といわれた尾崎萼堂は〈板垣が元気があって、大いによろしい。板垣伯の風貌がよく出ておる。だが伊藤公のはどうも元気がない。泣きそうな感じもする(略)大隈も意気に欠けているようだ〉との感想を述べたと、紹介している。更に、北村氏は〈「板垣死すとも自由は死せず」の有名な文句を吐いた板垣退助で(略)写真に写っているひげが非常に立派なのにほれ込み、写真そのままのポーズを再現した〉と、述べている。
 なお、高知城内にある板垣像は、大衆に向かって立ち姿であるが、雰囲気はよく似ていると思われる。 
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