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2012年4月26日 (木)

広谷喜十郎の歴史散歩 21

 カツオの土佐節誕生

 5月になると、『柳多留』にある「卯の花と新茶 鰹の釣りで買い」という句が思い浮かぶ。高価なカツオを買った釣り銭で、初夏の卯の花と新茶も買ったという。
 5月中旬、毎年中土佐町久礼八幡宮前で、「カツオ祭り」が盛大に行なわれる。例年、1万2千人超の人びとが集まる。

江戸時代の土佐沖では、♫ いうたちいかんちや おらんくの池にゃ潮吹く魚が泳ぎよる ♫ と、唄われた様に、カツオの1本釣りや捕鯨という豪壮な漁業が展開される場であった。
 寛文年代(1661~72)の頃、土佐の漁業のおくれに目を付けた先進的な加工技術を持つ紀州漁民、土佐漁場に進出した。土佐清水市内には、紀州人の墓があちこちにある。紀州との繋がりがうかがえる。
 大坂で発行された、有名な『本朝二十不孝』(井原西鶴・貞享3年)という作品に、幡多郡の大金持ちになったカツオ節商人を紹介している。土佐清水市の中浜の「袋屋」というカツオ節問屋のことである。
 当時のカツオ漁を調べてみると、足摺半島西側にある 伊佐・松尾・大浜・中浜・清水・越・養老の「鼻前七/浦」が、その中心地であった。
さらに、中浜に山城屋というカツオ節商人が台頭してくる。伝承では、工員700人を雇い、春日丸に積んで遠くは江戸や大坂に送ったので、船号に因んで「春日節」と呼ばれるまでになったという。
 正徳3年(1723)に、大坂で刊行された百科事典『和漢三才図絵』のカツオ節の条に〈土佐之産ヲ上為、紀州熊野次之、阿州、勢州次之之〉とある。土佐のカツオ節カツオ節の品質の良さは、「土佐節」と称して、天下に鳴り響き、大坂市場において大きな地位を占めていたのである。                      
 何故土佐節が良質であったのだろうか。
 春になると、黒潮に沿って日本列島沖にやって来るカツオの大群を鹿児島沖で、捕獲して製造する。カツオはまだ十分に脂がのってない。さらに、北上して静岡県沖あたりで穫るカツオは、脂が乗りすぎて、カツオ節には向かない。初夏の頃、土佐沖で穫れるカツオはカツオ節に、最適だと言われている。そのことは、大正期の「各府県産鰹節表」の化学分析結果で証明されている。証明されている。
 浦奉行・谷真潮の『西浦廻見記』に〈鰹さつまの方より来りてここへ来る頃はやせてよくなり、熊野へ廻り行くほどに又こえ脂おおくなる。されば土佐節のよさはそのゆえなり〉と、述べている。土佐沖でのカツオがその節造りでは最高に良いという。

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コメント

 秦史談第168号で先生がブログを発信されていることを知りました。歴史には疎い私ですが勉強さしてもらっています。
 ところで、この回の記事内容とは関係ありませんが、一つ質問があります。
 高知市前里の裏山に「吉本家累代之墓」と刻んだ自然石の大きな碑があります。この墓碑を建てた吉本天祥という人のことを知りたいのです。

通りすがりの神奈川の歴史好きです。吉本天祥と言う方が今は亡き湘南軌道の社長
におられました。この方については、興味があって調べています。
文久二年生まれ(没年不明)で本名は吉本松吉。代々当主が天祥を名乗ったようです。
高知の「吉本天祥」と同一人物か定かではありませんが、明治~昭和で金持ち(多分)
だと候補は絞られて来るので御当人ではないでしょうか(但し東京在住です)。

神奈川の歴史好き様
年末になって10月13日のあなた様のコメントに行き当たりました。吉本天祥の本名が「吉本松吉」である史料をぜひ教えていただけませんでしょうか。
 天祥の人物像については『高知県人名事典 新版』(1999年9月、高知新聞社発行)923~924ページにあります(実は筆者は私です)。それを書いた際、天祥=松吉である確証を見つけることができませんでしたが、いまあなたのコメントに接し目の前が明るくなったような気がします。
 吉本松吉の名は『自由党史』に4箇所に見えるほか、『土佐自由民権運動日録』(土佐自由民権研究会編、高知市文化振興事業団発行)に頻繁に登場します。自由民権運動の闘士として政談演説会の弁士を活発に務め、高知から大阪に転居するや関西愛国同盟会並びに大阪有志1千余人の総代として3大事件建白のため上京、保安条例で退去させられています。
 冒頭のお願い、よろしくお願いいたします。

自分が参照したのは「株式総覧」(1918)です。国会図書館のデジタル資料で確認できると思います。吉本氏は湘南軌道から退いた後に東京で弁護士をされていた様で、土佐の自由民権活動の頃の経歴を活かしたとすると合点が行きます。
(ちなみに管理人さんにはメアドが見えていると思います)

高知に行くついでがあり、藤戸様の情報を頼りに前里270番地に行きましたが、真新しい墓が四基ほどあるものの自然石の碑は見つかりませんでした。場所が違うのかと裏山中腹の墓地にも登って見ましたが見つけられませんでした。もしかしたら、もう撤去されているのでしょうか。追加情報を頂けると大変助かります。 敬具

神奈川の歴史好き様へ
 吉本家累代の墓の写真を送りますのでメールアドレスをお知らせください。
 ふじとしんいち

藤戸様
返信ありがとうございます。
アドレスは
mensch@wonder.ocn.ne.jp
です。宜しくお願いします。

私の先祖です。曾祖父天祥は鶴見の総持寺にお墓があります。 詳しくお知りになりたい場合はメールへどうぞ。

メアドです。

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