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2012年4月20日 (金)

広谷喜十郎の歴史散歩 20

   名古屋城の恩人・中村重遠
 
 一般的に天下の三大名城といえば、名古屋城・姫路城・熊本城があげられる。
 明治10年の西南戦役では、熊本城で篭城する三千人余の政府軍を西郷隆盛の壱万数千人が激しく攻撃した。
 この時、篭城兵を指揮していたのは、土佐人の熊本鎮台司令長官の谷干城である。50日余にわたる篭城戦を戦い抜いた政府軍の活躍ぶりは有名である。加藤清正の築いた名城だけあってなかなか陥落しなかった。干城の部下で、土佐人の中村重遠も別動隊第二旅団の参謀として、西郷軍と戦っている。
 しかし、これら名城といえども時代の流れの中で、次から次へ消えていく運命にあった。『宿毛人物史』の「中村重道」によると、〈明治六年のはじめ、太政官では、全国百四十四の城に廃棄を布達した.そしてほとんどの城が破壊され、わずかに三十九の城が残ったに過ぎない(略)名古屋城ではいたみがひどい櫓などはすでに取り壊しにかかり、姫路城も市内の神戸某がわずか二十三円五十銭で落札した〉という。
 これを見かねた中村重遠大佐は、〈芸術的にもまた築城学的にも、極めて価値の高い名城を何としても後世に残さなければならないと思い、陸軍卿山形有朋にこの旨をしたためた建白書を提出した〉。
 そこで、明治12年1月29日に名古屋城と姫路城を陸軍が修理することになった。
 その後、姫路城には、中村大佐のおかげであるとして、昭和19年に城内の菱門内に立派な顕彰碑を建立している。
 水谷盛光著『名古屋城と城下町』(名古屋城振興会)のなかに、「名古屋城存置と陸軍大佐中村重遠」の項目がある。〈明治3年12月、名古屋藩知事徳慶勝の発議によって、取壊することになった。が、明治5年4月駐日ドイツ公使のフォン・プラントの破却中止の勧告によって、破却寸前にことなきを得た〉という。
 その後も全国諸城の存続問題が再燃しているが、『名古屋市史』や『名古屋城史』には、全く触れられていない。
 これについて、水谷氏は『姫路城史』や『宿毛人物史』のなかで、中村大佐の尽力で姫路城と名古屋城の存続が認められたと紹介されているだけである。
 名古屋市では、城の保存問題について中村大佐の存在がほとんど知られていなかった。やっと話題になったのは昭和12年のことである。名古屋市で開催された「名古屋汎太平洋平和博覧会」に中村大佐の胸像原型が出品された新聞記事を水谷氏が紹介している。
 しかし、博覧会直後に日中戦争が起き、胸像建設が沙汰やみになり、その原型まで行方不明になったと、述べている。
  その後、城は昭和20年の空襲によって焼失してしまった。
 名古屋市民にとり、加藤清正の築いた城は大きな存在であった筈である。
 そこで、戦前を知る人びとが中心となり、城が再建された。昭和34年のことである。

 
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