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2012年3月 9日 (金)

広谷喜十郎の歴史散歩 11

   福島県と土佐(三)
 安岡章太郎の長編小説に、『流離譚』(新潮社刊)がある。
 それは、〈私の親戚に一軒だけ東北弁の家がある〉という書き出しではじまる。
 その東北弁の安岡家が、なぜ土佐を離れ、遥か遠くの福島の方へ移住したのかと、いう調べをしている。戊辰戦役のとき、〈会津で死んだ覚之助墓を守るために、福島の方に移住したといふものかと思ってゐた。しかし、少し考へてみると、これ理屈に合はない〉との疑問から、香南市山北の安岡家のルーツ調べが展開していく。
 そこから幕末、自由民権運動と安岡家の歴史と絡ませながら1,600枚の大作にまとめあげている。そして、最後の方で〈安岡正象が明治二十四、五年の頃に会津若松へ出向いたのは何のためか〉という調べに到達するのである。
 明治元年5月、土佐軍は福島県白河方面に進出する。新潟方面から迂回してきた北行部隊や宿毛の機勢隊とも合流し、東北の奥州諸藩の連合軍と戦いながら8月23日には会津若松城攻略に参加した。そして、9月23日に若松城を落城させた後、土佐軍は帰国している。従軍兵は、2,700人余りで、死者は122人、負傷者119人であったという。
 高知県退職公務員連盟では『志士は今も生きている〜その墓所をたずねて〜』をまとめた。福島県にある土佐人を埋葬した墓所を紹介した。白河市の長寿院に18人、白河郡棚倉町の蓮家寺に1人、田村郡三春町の紫雲寺に、4人、安達郡本宮町の誓伝寺に1人、耶麻郡猪苗代町の西円寺に1人、会津若松市の西郡墓地に49人、同市相生町の自在院に2人、同市蚕養町の法華寺に2人、それぞれ祀られている。
 『高知県人名事典』(高知新聞社刊)によると、幕末の野根山二十三士事件の首領・清岡道之助の弟(田野町出身)の清岡公張も、また勤王の志士であると紹介されている。その公張は、戊辰戦役では東山道鎮撫総督府大監察に任ぜられる。明治2年7月に福島県権令、8月に白河県権令、同4年11月に二本松県権令となっている。
 公張は、明治初年に福島県方面で地方行政の整備を行なっていた。

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