2018年7月27日 (金)

広谷喜十郎の歴史散歩 327

   オーテピアが開館

(またまた、足の悪い喜十郎に代わり、妻・雅子が書きます)
 学校の夏休みがはじまった。1年生の孫は、あれこれと計画多彩。新図書館複合施設「オーテピア」が24日、開館した。所用のできたママに代わり、オバアちゃんの出番となった。ずっと続いている猛暑。
 エレベーターで5階へ直行。高知みらい科学館の「プラネタリウム」の予約は、ママがしてあった。開始時刻まで、科学館の展示を丁寧に見てまわった。係員が丁寧に、やさしく解説してくれる。
 1年生は、きっちり聞き、触り確かめていく。説明板を時間をかけて読み、試してみる。
 投影時刻が近づき、列に並ぶ。皆、ワクワク感で高揚している。結構、老人と思われる人も多い。孫は、学校の仲良しさんと一緒だ。
 「高知から宇宙へ」という題で、優しい解説だった。終了後、迎えのママに孫を渡し、ババは、外周りを見る。
 中の橋通りの商店街は、「図書館通り」の表示がなされている。北側・追手筋の追手前高校にむかい、「寺田寅彦の全身像」が建っている。
 昭和28年、「寺田寅彦の切手」が発行された。その当時、ここの南側には高知大丸があった。そこで「寺田寅彦」に関する展示があった。中学1年であった私は、学校の講堂で、寺田寅彦の長姉である別役駒さんのお話を聞いた。彼女は、大先輩であったようだ。

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2018年7月22日 (日)

広谷喜十郎の歴史散歩 326

    梅雨明けそして猛暑
 
 長くて、大雨をもたらした梅雨がやっとあけた。毎夏恒例の家中の燻蒸の時がきた。もの凄い暑さ。その間、香川県丸亀と徳島市で過ごした。
 まず、丸亀市の「ふれあい市場」(水産地方卸市場)内の海鮮食堂で昼食をとった。海鮮丼や刺身・煮付け・揚げ物いろいろの料理が用意されている。
 空海生誕地・善通寺の近くでもあるから、外国人向けのパンフレットも用意されていた。
 翌日は、徳島市へ向かい、鳴門にある「びんびん亭」で鳴門海峡で育った「鯛料理」を食べた。ホテルでは、中国人の学生の団体が宿泊していた。朝食バイキングで彼等を係員が流暢な中国語で対応していた。
 世界の人と通じるには、外国語を話すことが大切だなと、痛感した。 
 

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2018年7月 7日 (土)

広谷喜十郎の歴史散歩 325


    高知県での航空機

 6月末からの雨は、未だに降り続いている。「ノアの方舟」を思わす雨であるが、皆が救われなければならない。鉄道の不通が報じられている。今朝のニュースでは、全国で6人死亡・行方不明者数…も。
 こんな時、遠出の助けになるのは飛行機である。

 目下、陸の孤島化している高知県にとっての神は、何時現われたのだろうか。高知の空を最初に飛んだ人は?? それが何処へ墜落したか? 
 それを知る人も、語る人もだんだん少なくなった。
 大正4年8月、秋田常三郎が来高し、高知に空を初めて飛んでいる。
 同6年10月30日、アメリカ人フランク・チャンピオンが来高した。宙返りなどを、妙技を繰り返し、10万人もの群衆を「アッ」と云わせたようだ。午後の2回目の飛行、筆山から鴨田上空辺りまで飛んで来たところ、風圧の不具合で、左翼が切断し、4000フィートの高空より墜落した。

 以前、鴨田地区に住んでいた「甲藤勇」氏から墜落地点について聞いたことがあった。現在そこには、石材店の敷地で、それを示す石碑が建立されている。


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2018年6月24日 (日)

広谷喜十郎の歴史散歩 324

    むろと廃校水族館

 梅雨の中休みの1日、室戸市室戸岬町の旧椎名小学校を改修した「むろと廃校水族館」へ連れて行ってもらった。校舎内には、円形の大水槽が設置され、海中のように暗くしてある。ブリやサバなど、ふだん普通に食卓に上る魚が泳いでいる。子供たちの手洗い場も水槽に変身していて、浅瀬の魚や貝などの生息池とされている。
 また、次へ進むと椎名らしく、定置網の縮小模型が展示されている。図書室の書棚の上には、ミンククジラの骨が横たわっている。
 屋外の子供たちが泳いでいたプールは、ブリやサバ、サメが泳いでいる。
 ちょっと海の中へ遠足に行った気分であった。
 椎名大敷組合では室戸沖に網を固定し、そこに入った魚をとる定置網漁(大敷き網)を100年以上続けている。網は全長約500m、幅約90 m、深さ約75mを誇る。最盛期はブリやサバ、アジの水揚げがある。が、現代、3kの仕事は若者に人気がない。
 先頃も東北金華山沖で高知のカツオ漁船の事故があった。椎名大敷き組合では、「面白いぜ、サラリーマン漁師…」こんな威勢のいいキャッチフレーズでパンフレットを作った。人口が減る地に、若い移住者を呼び込む狙いである。 漁師の多くは自ら漁船を所有したり、漁船に雇われたりして遠い海へ出漁する。何日も海で魚を追うのが一般的だ。ところが、橋本健組合長は組合を「会社」、漁師を「サラリーマン漁師」と呼ぶ取り組みだ。
 この集落の秋祭りは、海へ入る暴れ神輿で有名である。


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定置網の模型
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2018年6月18日 (月)

広谷喜十郎の歴史散歩 323


      父と娘

 父の日にあたり、近所のスーパーマーケットでお父さんの似顔絵募集があった。孫は、画用紙いっぱいにパパの顔をでっかく描いた。そして、題は、「のみすぎに ちゅうい!!」見事金賞。
 私は全くの下戸であるが、パパである長男は少々飲む。すぐに真っ赤か。それを孫は、よく捉えている。
 息子は、夕方の保育園の放課後、親類で手の空いた人がみてくれていた。いずれも老人であったから、紙と鉛筆をあてがい自由にお絵描きをしていたわけだ。
 そして、幼稚園になって絵画教室に通い、よく絵を描いていた。高知市長賞も何度かもらい、楽しく絵を描いていた。当時の高知市長は、坂本昭氏であった。
 昭和51年の17号台風襲来の日、あの「自分の身は自分で守って下さい」の非常事態宣言が出た。私たち2人は、教員であったから学校が休校になると確認できたら高台の団地で、子供たちと休暇を過ごした。(罰当たり?)

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2018年6月14日 (木)

広谷喜十郎の歴史散歩 322


    高知市自由民権記念館

 過日、高知市自由民権記念館で会合があった。そこの2階では、坂本龍馬の遺志を引き継いだ坂本直寛についての展示がなされていた。
 私は階段を上がることができないので、見学を諦めたが、直寛については研究している。
 龍馬は、幕末に京都にあふれている浪人たちを引き連れて北海道に移住させ、開拓させようとしていた。
 明治時代になり、龍馬の遺族によって実現されることになった。龍馬の長兄・権平を継いだのが直寛である。彼は自由民権家として活躍し、キリスト教派の支持を受けた。北海道の北見の原野開拓をすべく「北光社」を設け、初代社長となる。
 それが縁となり、昭和61年4月に、高知市と北見市が姉妹都市となった。その展示がなされていると思うと是非に拝見したいと思ったが、老人や障害者は門前払いである。

 現在は、どこでも老人に優しい。セルフの店でも、手が差し伸べられる。甘えるわけではないが、足腰の不自由の人間に配慮していただけたらと思う。これは老人の繰言であろうか。
 この自由民権記念館の植材について、私宅の植材をされた業者からその経歴書に、署名を求められた。私宅の小さな庭であるのに。

 

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2018年6月 8日 (金)

広谷喜十郎の歴史散歩 321

  高知新港に豪華客船がやってきた

 6月7日、土佐湾に面した高知新港へ大型の豪華客船を見に行った。世界最大の「クアンタム・オブ・ザ・シーズ」で有る。定員4,180名、168,666t、全長348m 全幅41mだそうである。ほんとにビックリ。
 一般見学用の高台から。これは、地震対策用でもあろう、ヘリポートが設けられていたから。
 平常日であるから、娘・息子に連れられてやってきた老人が多かった。私もそうであるが。近くで見ていた老婦人に話しかけられた。「大きなマンションが、海上に浮かんでいるようですね」と。
 桂浜の龍馬記念館から見ると、小さくなって目の前の大きな感動は得られなかった。龍馬もジョン万もこの船を見たら、ビックリであろう。
 

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桂浜から見たら


2018年6月 4日 (月)

広谷喜十郎の歴史散歩 320

    梅雨入り

 高知市(四国地方)の梅雨入りは、先月28日に発表された。

 昭和45年、愛宕町に住んでいた。8月のことであるが、台風による雨で高知市の東部が浸水した。我が家も床下浸水。汲取式トイレであったから、苦労した。
 この後、高台の団地が大人気であった。バスしか交通手段を持たなかったから、毎日の生活は大変であった。が、子供たちは造成真っ最中の団地の中で、冒険遊びに夢中であった。
 お金の都合で、狭い土地しか手に入れられなかったから、蔵書・家財が増える中、広い敷地だけを考えて今の住居に落ち着いた。自前の浄化槽である。
 それが、市営の下水道が配管されるようになり、目下工事中である。工事完了が待たれる。

高知市広報より河川図
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下水道工事の様子

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2018年5月22日 (火)

広谷喜十郎の歴史散歩 319

    ご飯や

 今回も高知市生まれの妻・雅子が書きます。
 前にも書きましたが、私の祖母は担ぎ婚で祖父と一緒になりました。そこで、生活をするため煮売屋を始めたようです。祖父は、多分漁師の末裔であったらしい。お墓を見ると、曾祖父の墓があるから、曾々祖父が漁民であったと思う。曾祖父の弟・叔父とその妻などの墓がぐちゃぐちゃ。何でかな?と思っていたが、納得した。遭難した曾々祖父を祀るためには、遺骨が無かったのではないか。

 父祖の地を離れ、新開地・愛宕町に移り住む。そこで生まれた祖父は、高等小学校まで進む。そして妻を娶るが、食べることを考え、煮売屋を思いついたらしい。つまり、ご飯やである。今思うと、祖母はかなり賢かったようで、現実に相応し、自分の立場を堅実に歩んで行ったようだ。夫婦で商売をし、愛宕街道で、桑市が立つのに合わせて、煮売りやを始めた。土佐山から桑の葉を売りにくる人に昼ご飯を提供する「ご飯や」である。そして、魚・料理を提供する仕出し屋になった。
 戦時中、疎開先に土佐山を選んだのは、伝手があったからであろう。土佐山に、桑尾という地区もある。
 非日常に使うものは、早く疎開させたり、庭の池に埋めたり、明日の朝運ぶ物は、荷車に載せていた。当時、4歳であった私も覚えている。明日、疎開先へ向かうため、私の履く藁草履も作られていた。
 空襲警報で目覚め、母の帯から作られたリュックサックを背負い愛宕町から三谷を越え、土佐山村網川へ向かった。江ノ口変電所辺の田圃では、多くの人が布団を被りながら、水路に浸かって倒れていた(多分死んでいたのだと思う)。
 頑張った私は、褒められ、「頑張ること」は良いことだ。と、植え付けられた。

 私は、祖母に仕込まれてお料理は、得意ではある。三度三度は、片付けも大変なので昼食は、ご飯やを利用することが多い。うどん・そば・ラーメン屋もあるが、ご飯とおかず、汁物を堤供する店が多くなった。熱々の卵焼きは人気商品である。


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2018年5月 9日 (水)

広谷喜十郎の歴史散歩 318

   八十八夜

“夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る 「あれに見えるは茶摘みじゃないか…”
の季節になった。
 ゴールデンウィークの最終日、高知県山間部・梼原町にある温泉(日帰り利用)へ行ってきた。このホテルは、地元産の杉をたっぷり使っている。この町は、いま最も輝いている建築家・隈研吾氏設計の建築群で知られる町になった。隈氏は、新東京国立競技場の設計でも知られる。高知県立林業大学校校長にも就任され、後進の育成にも力を発揮している。
 かつては、土佐のチベットとかいわれ、新任教員にとっては忌避したい地であった。道路が改良され、高知市から2時間程で行くことが出来る新しい魅力的な町になっている。
 温泉で癒され、隣町の津野町の道の駅で新茶の試飲をさせてもらった。まろやかな茶に口福が訪れた。この茶は、高知市内や近郊の食堂でも供されている(新茶ではないが)。
 この地は、四国カルスト山地の中腹、いわゆる津野山街道沿いにある。山の中腹辺まで茶畑が広がっている。「四万十川源流地」でもあり、土佐茶の名産地にもなっている。
ここの山茶は、昔から香り高いことで有名であった。静岡県などの茶問屋が、香りづけのために大量に買付けにやって来ていた過去がある。
 現在は、地元の若者が「足元の宝物・茶」を地域振興に繋げるよう頑張っている。道の駅の裏山は、「鶴松ヶ森」。初心者(?)でも楽しめる登山口になっている。


隈氏設計のホテルと湯棟との連絡橋
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