2017年4月24日 (月)

広谷喜十郎の歴史散歩 280

      鯉のぼりの季節
 
 花散らしの雨風が強く、桜の季節が一気に終ってしまった。
 近所の農家の庭先にどっしりした2基が作られていた。長い孟宗竹も用意され、準備完了?であった。鯉が泳ぐのを待ちかねていた。
 22日、待望の鯉のぼりが上がった。からからと金属製の風車もまわっている。もう1つの竿には、縦のぼりで家紋がつき、大きな赤鯉と金太郎が描かれている。
 この辺りも、農地が少なくなり住宅街になってしまった。男の子が生まれたよ、元気だよと、お家の喜びが発信されているようだ。
 澄みきった空には、トンビが輪をかいて飛んでいる。

 四万十町十和の川渡し、佐賀町のカツオのぼり、いの町仁淀川の川に泳ぐ鯉、各地で競ってアイデアを出し進化している。
 商店街では、フラフで初夏らしさを演出している。
 
我が家では、5才の孫が朝顔の種まきをした。カツオが美味しくなったし。

Dscf4228


Dscf3540


2017年4月 8日 (土)

広谷喜十郎の歴史散歩 279


近所でお花見

 先の日曜日、近所の大谷公園でお花見をした。5才の孫がよく行く公園を皆に紹介したく、ママのお誕生日も兼ねて計画した。
 先日食事会をした折、貰ってきたパンフレットにより妻がお弁当を注文した。花粉症の孫は、専用めがねをかけながらも走り回って、皆に公園を紹介し楽しんでいた。
 
 朝倉といえば、女性天皇・斉明天皇を祀る朝倉神社に因んだ地名である。国立高知病院の前の鵜来巣から針木集落辺りまで、海であったと云われる。「乙女湊」など地名があったこと等からも理解できる。やがて、海岸線が後退して人家や水田耕作も行われるようになるが、湿地帯故の苦労が多々あったようで、何かと語り継がれている。
 昔は、「網代谷川」と呼ばれていた。この地の開発に伴い、大谷団地が出来、公園が設けられた。
 この公園には、遊具も各種あり、手入れもされている。

Dscf4198


Dscf4199


Dscf4202


Dscf4204


2017年3月31日 (金)

広谷喜十郎の歴史散歩 278


古代ムラサキ草の復活

 今年の賀状の中に、四万十町の蕨川正重さんからのものが無く、心配していた。寒中見舞いのハガキが届いた。昨年10月に、90才で亡くなられたとのことであった。
 蕨川さんとの付き合いは長く、『十和村史』をまとめていた折から、何かと教示されることが多かった。
 私が、万葉集のロマンを伝える「古代ムラサキ」の復活に火をつけた。それを実地に実現して「ムラサキ草」を栽培してくれた人である。
 江戸時代前期、野中兼山が公布した掟書のなかに「幡多郡や高岡郡の山中に、ムラサキ草があるからこれを増殖させよ」と命じている。この自生地は何処だろうか。十和村あたりだろうか。蕨川さんにお願いした。
 以前、元牧野植物園長であった故・山脇哲臣さんからこの草の存在を伺ったことがあった。かつて、四国カルストで1本だけ見たことがあるが、絶滅危惧植物で見たことがないとされていた。
 蕨川さんから連絡が有り、十和村の山奥に自生地があると聞き驚いた。そこから採取した種を自己所有の畑に播いて育て、その種子を植物園や各地の篤志家にも分けている。
 蕨川さんの遺志を受け継いで、成果をあげて欲しいと願っている。
 
「紫は灰さすものぞつば市の八十のちまたに逢へる子や誰」万葉の時代,紫根染めをさりげなく詠み込んだ歌が、奈良県桜井市三輪山のすぐ近くに残っている。(今東光筆の歌碑が建立されている。)
 
Dscf4185


Dscf4189


Dscf4188


Dscf1499


2017年3月21日 (火)

広谷喜十郎の歴史散歩 277

    またまた淡路島へ

 次男がまたまた淡路島へ連れていってくれた。加齢に加えて体力が衰えたのを案じて、休日に遠出をさせてくれる。
 この連休には、淡路島の穴子料理を食べにいった。あなごの天ぷらは、四国内でも食べられるが、「地産地消の贅」を看板の「あなご弁当」を食べに行った。
高知では、うなぎの蒲焼きというところである。以前に、名古屋のすし屋であなごの1匹のった寿司を試みたことはあったが、椎茸を混ぜ込んだ飯に鎮座したあなごはなかなか美味しかった。
 美味しいものには人が群がるから、食するためには忍耐がいる。
 心身が満足し、帰途についたら、道路沿いの紀伊水道の海面がピンク色だ。車を停めてみると、ゴミが散乱。産廃ではなく、個人的なゴミ投棄だ。心の慚愧が求められる。
 我が古里・地球を守ろうではありませんか。

Dscf4148


Dscf4149


Dscf4153


Dscf4157


2017年3月 9日 (木)

広谷喜十郎の歴史散歩 276

    こおち、こうち???
 
 先頃、近親が集まり、城西館で食事会をした。昔、今上陛下や皇太子殿下に召されたことがあったので懐かしかった。
 今回は、5才になった孫娘がしっかりとした挨拶をし、爺・婆はウルウル。緊張することも無く、美味しく楽しく食事をした。
 お膳の上の「箸袋」の表記を見て??となった。折しも、幡多郡十和の訓みの疑問。「とおわ」なのか「とうわ」なのか??

 現在の高知城のある山名は、数百年前から大高坂山と呼ばれていた。大高坂松王丸の居城であった。江戸時代初期、山内一豊が入国し築城した折、「河中(こうち)山」と改名した。
 その後、五台山の空鏡上人から「高智山」と改名してもらったという記録がある。五台山の仏様の高い智恵を授かりたいとの強い思いから。河中と高知は、同じ字音であるから高知になったという。
Dscf4145_2


Dscf4127


Dscf4123_2


2017年2月25日 (土)

広谷喜十郎の歴史散歩 274


      雛の節句

 孫娘も5才になった。もうすでに、雛飾りをしてある。お菓子やごちそうを待ちわびて、あれこれ注文を述べている。
 知人で「桃子さん」がいる。この頃に、生まれたと云う。妻が買い物に行く途中のお家で桃の花が満開であったと、嬉しげに話していた。そのお家にもお嬢さんがいるという。
 このところ、正月は淡路島へいく。そして、伊弉諾神宮に詣る。その由緒書でも「伊弉諾大神が黄泉の国に立ち入られたとき、桃の実の霊力によって醜鬼から逃れた。当神宮の最重儀である粥占行事(一月十五日)で桃の小枝の薪で邪気を祓い粥を炊き上げるのもこの故事に由来する」とある。    「神桃絵馬」は悪気祓い、魔除け、厄除の力があるとして参詣者に提供している。
 高知市桂浜に近い三里地区は、かつて桃の里として知られていた。そこに、明治13年3月2日田中貢太郎が生まれた。彼は、後に作家として有名になる。ペンネームを「桃葉」と名付けている。桂浜に記念碑が有り、近くにも師・大町桂月の碑もある。名月の夜、両人とも酒好きであったからこの地の酒供養祭がおこなわれている。

Dscf4113


Dscf1147


Dscf1265


Dscf4120


Dscf4122


2017年2月 7日 (火)

広谷喜十郎の歴史散歩 273

    恵方巻から立春へ

 2月3日の節分。最近は、縁起のよい方に向かって巻寿司を食べると福がやって来ると宣伝されている。数年前までは、煎り大豆を齢の数だけ包み辻に置いてくる、とされていた。今年も辻に置かれた紙包みの大豆が哀れである。
 「恵方巻」のほうが、環境保全のためにも近所迷惑にもならず有効であろう。恵方巻の風習は、関西地方が発祥の地だと言われているが、海苔問屋あたりの宣伝だとの説が有力である。最近になり、大手コンビニが目を向け、スーパーやコンビニの競争商品になっている。
 我が家では、食物アレルギーのある孫のためにお婆ちゃん特製のり巻きを作った。5才の孫娘は、2本をペロリと平らげた。爺は、目尻が下がるのみである。こうして、春を迎える行事が後世に伝わることは嬉しい。
 湯浅浩史著『植物と行事』(朝日新聞刊)によると、節分の日の豆まき行事が有名になっているが、ヒイラギを出してくる方がもっと古くからあるという。
〈文献上では、千年もさかのぼる。平安時代、紀貫之は元旦に都を偲び「今日は都のみぞ思ひやらるる。小家の門に端出之縄、なよしの頭、ひひらぎ等いかにぞ言ひあへる。」と『土佐日記』に書いた〉と、紹介している。ここでの魚「なよし」はボラだという。なお、別書によると、豆まきは中国伝来の行事で、後代の室町時代だというからヒイラギの行事は古くから存在してたことになる。
 サンタさんが持ってきてくれた愛車に乗って、散歩に出かけた孫は、春を告げる草花を「お土産」と、爺に持ってきてくれる。


Dscf4106

Dscf4057_2


2017年2月 2日 (木)

広谷喜十郎の歴史散歩 272

     春近し?

 1月25日付高知新聞に、「黒潮町の明神水産 一本釣り船団出港」の記事があった。〈カツオ・マグロ類の漁獲高が昨年まで4年連続で日本一を記録した〉2隻の明神丸が小笠原諸島と鹿児島沖方面に向かったという。
 私は、『高知県カツオ漁業史(近世篇)』を執筆している。これらの記事を読みながら、毎年のカツオ漁を期待している。

 カツオ船団の出港と共に、思い浮かぶのは「オガタマの木」の花である。この木のことを教えてくれたのは、2年前に亡くなった故林勇作氏である。
彼は、中土佐町役場の職員であり、「カツオ漁業史」の作成に共に携わった。そして、カツオ漁業資料館建設を共に願っていた。久礼八幡宮の境内にある青々として香り高いオガタマを誇りに思っていた。「町の木」として指定したり、この木の花に惹かれてくる、国の特別天然記念物の蝶や鳥を町の宝として扱っていた。
 『四国の樹木観察図鑑』(高知新聞社)の「オガタマノキ」の条に、〈沿岸部の照葉樹林内に稀に自生する常緑高木・葉は常緑で光沢があるため神事に用いる木(略)和名は「招霊(オガタマ)」、「拝み霊」からの転訛と言われ(略)神霊を招くのに用いられる〉とあるように、神木として存在していた。1円硬貨の紋様でもある。花は初夏に咲き、果実がはぜて、紅色の種子が見える姿から「神霊鈴」の原型にもなった。この花に惹かれてくる蝶が「ミカドアゲハ」である。
 なお、天皇陛下の弟君・常陸の宮様の「おしるし」でもあるそうだ。
 いの大黒さま・薫的神社など近隣の神社でも木は見られる。花は、高いところに咲くのでなかなか見られない。


Dscf3105

Dscf3187

Dscf3536


Dscf4103


2017年1月16日 (月)

広谷喜十郎の歴史散歩 271

     龍馬が福井・越前へ行く

『高知新聞』1月13日付夕刊に「龍馬(新国家)の財政重要」、「暗殺5日前の直筆手紙」、「新政府に由利公正推挙」の見出しのトップ記事が大きく出た。この手紙は、龍馬が越前藩重臣の中根雪江に宛てた書状である。
 由利公正とは三岡八郎のことである。文久3年、龍馬が越前を訪れた際、横井小楠と共に面談した相手であった。三岡は、龍馬に藩の財政改革をおこない成果を上げた話を聞かせた。

 平成8年と平成12年、「幕末サミット」が福井市で実施された。パネラーの一人として、当時の市長・松尾徹人氏と共に参加した。この会議で得た成果は、土佐史談会の「越前藩と坂本龍馬との関係」に発表したので、興味のお有りの方はそちらもどうぞ。
 このなかで、松平春嶽や横井小楠等について触れた。慶応3年、再度わざわざ三岡八郎(由利公正)に会いにいったのは、〈日本には関税自主権がなく(略)きわめて不利な状態におかれていた。経済的にも混乱していた。それで、八郎の財政策を聞く必要があったと、思われる〉と、書いた。
 今回見つかった龍馬の書状の宛先が「中根雪江」であったことは、拙稿の補足資料の発見であり、有り難い。
 こいつアは春から、縁起がいい(?)かな。
   由利公正
Dscf4097


Dscf4095_2


2017年1月 3日 (火)

広谷喜十郎の歴史散歩 270


     オノコロ島神社参詣

 新年おめでとうございます。
 私も老骨に鞭打ち、家族に助けられながらも元気で頑張ろうと思っています。 

 今年も元旦は、淡路島の海辺のホテルで迎えた。朝食中に、初日の出を拝むことが出来た。今年も元気で過ごせるようにと願っている。
 国生み神話で名高い伊弉諾神宮へ初詣に行った。西日本各地からの参拝者で賑わっていた。「いっくさん」と呼ばれ、イザナギ・イザナミゆかりの神を祀っているので、老若男女・ペット犬(専用車に乗せて)で溢れかえっていた。
 『由緒書』によると、国生みの大きな役を果たしたイザナギは、国治行為を天照大神に任せ、晩年の余生をこの地で過ごしたという。〈住居跡に御陵が営まれ、志貴の聖地として最古の神社が創始されたのが当神社の起源である〉と伝えている。
 『古事記』や『日本書紀』によると、オノコロ島は二神が国生みの折、天の沼矛(アメノヌマボコ)の先から滴り落ちたしずくが固まって出来た日本列島最初の島だという。こちらのオノコロ島神社もたくさんの車・人で溢れていた。巨大な赤い大鳥居は、21.7mもあるという。
 両社とも平成7年の阪神・淡路大震災で、被害を受ける。地元氏子らにより立派に再建されている。

Dscf4090

Dscf4066

Dscf4067

Dscf4075


«広谷喜十郎の歴史散歩 269