2012年5月18日 (金)

 広谷喜十郎の歴史散歩 23

         猫神様の変遷

 古代エジプトの歴史書によると、猫の家畜としての歴史は、約五千年前に始まるという。
 ピラミッド時代の女神・バスト信仰と猫が結びつき〈バストは夜の蛇の番人で猫もまた蛇を退治してくれる(略)また猫はよく子を産むことから豊作・繁栄のシンボル〉(『猫まるごと雑学事典』光文社)として神格化されていた。
 平成22年1月26日付『高知新聞』に〈アレクサンドリア神殿から古代エジプト・プトレマイオス3世(紀元前246~同221年)時代と見られる猫の姿をした女・「パテスト」の像が発掘された〉と写真入りで紹介している。
 古代エジプト滅亡後、ネズミを捕らえる特技から、普通の家畜として中国へは5世紀初頭にインドから移入したと言われる。6世紀頃には、日本へ仏教と共に来たと推測されている。
 また、『続々日本史こぼれ話』(山川出版社)には、猫の飼い方の変化について、〈猫は中世までは(略)首綱につないで飼うのが原則だった〉と述べられている。
 ところが江戸時代になり、各地で都市生活が発展してくると、ネズミが大繁殖してきたので、ネズミを捕まえるため、猫の放し飼いが一般化する。
 養蚕業の発展に伴い養蚕農家が増加する。蚕の大敵・ネズミ退治用に、猫が必要とされた。『日本石仏図典』(国書刊行会)の「猫」の条に、〈長野県の山裾一帯の村々は、養蚕地帯であった。蚕を大敵の鼠からまもるために、猫神に願いを託し、祈ることであった〉とある。

 拓本研究家の岡村庄造氏から、土佐町地蔵寺の地蔵堂の「猫像」の拓本写真を頂いたことがある。  高知県の『三原村文化財』の「猫神様」には〈三軒屋遺跡から五十メートルばかり入った山裾の椎の古木の元に猫神さまという猫の石像を祀った祠がある〉という。
 その由来は、中世末に、椿姫が行方不明になり、愛猫があちこち探し回るが見当らず、弱り果てた姿で御所近くまで帰って来て、息絶えた。地元民は哀れに思い、祠を建てたと伝えられている。〈この猫神さまは、気管や胸の病気やこどものくつびき(小児喘息)になるとお数多く参拝に訪れるという。その小祠には、たくさんの猫像が奉納されている。その信仰の根強さがうかがえる。
 須崎市箕越地区にある「猫神社」は有名で、〈諸病、特に婦人の病や脳病に顕著な御利益〉や商売繁盛にも霊験があるという。
           
 最近では、招き猫が開運招福・千客万来・商売繁盛をもたらす縁起物としてよく 見かける。白猫は「福を招く」・黒猫は「病を除く」・金色は「運を開く」・左手を上げたものは客を招き、右手を挙げたものは銭を招くなど、言われている。
     
 

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2012年5月 5日 (土)

広谷喜十郎の歴史散歩 21(図録)(再)

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広谷喜十郎の歴史散歩 22

  田中英光の『オリンポスの果実』
 本年、7月のロンドンオリンピックが近づいて来た。関連する競技の話題が、何かと報道されるようになった。
 高知県人を父に持つ著名な作家・田中英光は、ロスアンジェルス大会にボート競技に選手として出場した。その父親というのは、岩崎鏡川である。高知市土佐山地区出身の歴史家である。『坂本龍馬関係文書』や『後藤象二郎』などをまとめている。鏡川の次男が英光で、宮内大臣・田中光顕伯から「光」の字をもらい、英光と命名したという。
 英光には、『オリンポスの果実』という名作がある。
 ロスアンジェルスへの行き帰りの船中でのさわやかな恋の体験を基に、小説化したものである。
 この大会に出場した高知県人・相良八重(高知市出身)は、女子走り高跳びで9位の成績を得る活躍をしている。
 英光の清純な恋の相手が彼女であった。父祖の地から来た土佐の女性に、船中で知り合えた喜びが、英光の淡い恋に発展したといえる。彼女との出会いの瞬間を
〈みじんも化粧せず白粉のかわりに健康がぷんぷん匂う清潔さで、あなたはぼくを惹きつけた。あなたの言葉は田舎の女子学生丸出しだし、髪はまるで老嬢のような、ひっつめでしたがそれさえ、なにか微笑ましい魅力でした(略)K県出身とある偶然がうれしかった。ぼくもK県といっても本籍があるだけで、行ったことはなかったのですが、それでも、この次、お逢いしたときの、話のきっかけが出来たとぼくは嬉しかった〉と、書いている。
 その後、お互いに高知県人であることを名乗り、親しみを増すのである。この時に、彼女がヨサコイ節を唄い、さらに踊り出す場面が感動的に描写されている。
 英光は、昭和10年5月初めて土佐を訪れている。その時の印象を『桜』という作品にまとめている。
 なお、英光の2男が、作家・田中光二で、冒険小説・SF作家として現代の文壇で大活躍している。
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2012年4月27日 (金)

広谷喜十郎の歴史散歩 21(図録)

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2012年4月26日 (木)

広谷喜十郎の歴史散歩 21

 カツオの土佐節誕生

 5月になると、『柳多留』にある「卯の花と新茶 鰹の釣りで買い」という句が思い浮かぶ。高価なカツオを買った釣り銭で、初夏の卯の花と新茶も買ったという。
 5月中旬、毎年中土佐町久礼八幡宮前で、「カツオ祭り」が盛大に行なわれる。例年、1万2千人超の人びとが集まる。

江戸時代の土佐沖では、♫ いうたちいかんちや おらんくの池にゃ潮吹く魚が泳ぎよる ♫ と、唄われた様に、カツオの1本釣りや捕鯨という豪壮な漁業が展開される場であった。
 寛文年代(1661~72)の頃、土佐の漁業のおくれに目を付けた先進的な加工技術を持つ紀州漁民、土佐漁場に進出した。土佐清水市内には、紀州人の墓があちこちにある。紀州との繋がりがうかがえる。
 大坂で発行された、有名な『本朝二十不孝』(井原西鶴・貞享3年)という作品に、幡多郡の大金持ちになったカツオ節商人を紹介している。土佐清水市の中浜の「袋屋」というカツオ節問屋のことである。
 当時のカツオ漁を調べてみると、足摺半島西側にある 伊佐・松尾・大浜・中浜・清水・越・養老の「鼻前七/浦」が、その中心地であった。
さらに、中浜に山城屋というカツオ節商人が台頭してくる。伝承では、工員700人を雇い、春日丸に積んで遠くは江戸や大坂に送ったので、船号に因んで「春日節」と呼ばれるまでになったという。
 正徳3年(1723)に、大坂で刊行された百科事典『和漢三才図絵』のカツオ節の条に〈土佐之産ヲ上為、紀州熊野次之、阿州、勢州次之之〉とある。土佐のカツオ節カツオ節の品質の良さは、「土佐節」と称して、天下に鳴り響き、大坂市場において大きな地位を占めていたのである。                      
 何故土佐節が良質であったのだろうか。
 春になると、黒潮に沿って日本列島沖にやって来るカツオの大群を鹿児島沖で、捕獲して製造する。カツオはまだ十分に脂がのってない。さらに、北上して静岡県沖あたりで穫るカツオは、脂が乗りすぎて、カツオ節には向かない。初夏の頃、土佐沖で穫れるカツオはカツオ節に、最適だと言われている。そのことは、大正期の「各府県産鰹節表」の化学分析結果で証明されている。証明されている。
 浦奉行・谷真潮の『西浦廻見記』に〈鰹さつまの方より来りてここへ来る頃はやせてよくなり、熊野へ廻り行くほどに又こえ脂おおくなる。されば土佐節のよさはそのゆえなり〉と、述べている。土佐沖でのカツオがその節造りでは最高に良いという。

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2012年4月20日 (金)

広谷喜十郎の歴史散歩 20

   名古屋城の恩人・中村重遠
 
 一般的に天下の三大名城といえば、名古屋城・姫路城・熊本城があげられる。
 明治10年の西南戦役では、熊本城で篭城する三千人余の政府軍を西郷隆盛の壱万数千人が激しく攻撃した。
 この時、篭城兵を指揮していたのは、土佐人の熊本鎮台司令長官の谷干城である。50日余にわたる篭城戦を戦い抜いた政府軍の活躍ぶりは有名である。加藤清正の築いた名城だけあってなかなか陥落しなかった。干城の部下で、土佐人の中村重遠も別動隊第二旅団の参謀として、西郷軍と戦っている。
 しかし、これら名城といえども時代の流れの中で、次から次へ消えていく運命にあった。『宿毛人物史』の「中村重道」によると、〈明治六年のはじめ、太政官では、全国百四十四の城に廃棄を布達した.そしてほとんどの城が破壊され、わずかに三十九の城が残ったに過ぎない(略)名古屋城ではいたみがひどい櫓などはすでに取り壊しにかかり、姫路城も市内の神戸某がわずか二十三円五十銭で落札した〉という。
 これを見かねた中村重遠大佐は、〈芸術的にもまた築城学的にも、極めて価値の高い名城を何としても後世に残さなければならないと思い、陸軍卿山形有朋にこの旨をしたためた建白書を提出した〉。
 そこで、明治12年1月29日に名古屋城と姫路城を陸軍が修理することになった。
 その後、姫路城には、中村大佐のおかげであるとして、昭和19年に城内の菱門内に立派な顕彰碑を建立している。
 水谷盛光著『名古屋城と城下町』(名古屋城振興会)のなかに、「名古屋城存置と陸軍大佐中村重遠」の項目がある。〈明治3年12月、名古屋藩知事徳慶勝の発議によって、取壊することになった。が、明治5年4月駐日ドイツ公使のフォン・プラントの破却中止の勧告によって、破却寸前にことなきを得た〉という。
 その後も全国諸城の存続問題が再燃しているが、『名古屋市史』や『名古屋城史』には、全く触れられていない。
 これについて、水谷氏は『姫路城史』や『宿毛人物史』のなかで、中村大佐の尽力で姫路城と名古屋城の存続が認められたと紹介されているだけである。
 名古屋市では、城の保存問題について中村大佐の存在がほとんど知られていなかった。やっと話題になったのは昭和12年のことである。名古屋市で開催された「名古屋汎太平洋平和博覧会」に中村大佐の胸像原型が出品された新聞記事を水谷氏が紹介している。
 しかし、博覧会直後に日中戦争が起き、胸像建設が沙汰やみになり、その原型まで行方不明になったと、述べている。
  その後、城は昭和20年の空襲によって焼失してしまった。
 名古屋市民にとり、加藤清正の築いた城は大きな存在であった筈である。
 そこで、戦前を知る人びとが中心となり、城が再建された。昭和34年のことである。

 
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2012年4月10日 (火)

  広谷喜十郎の歴史散歩  19

   八十八夜と初カツオ

 「夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が・・・」と、歌われる日は立春から数えて丁度88日目にあたる5月1日(今年は)である。
 南国土佐では、4月中旬にもなると、花が散り、田植えも始まっている。
 初夏は、駆け足でやって来る。
 また、この時季になると、土佐沖辺りのカツオ漁も本格化する。
 1本釣りによるカツオが百貨店前で街頭販売が行なわれた、という新聞記事を見ると、余計に夏が近づいた感がする。
 土佐では、初カツオと共に夏がやってくる。と、いう感が強い。
 平成18年度の総務省の統計「カツオの世帯あたり年間購入額」によると、
高知市が9,253円で、第1位、次に盛岡市が4,448円、水戸市が3,732円、福島市が3,700円、仙台市が2,797円などの順になっている。全国平均は、
1,696円で、5.5倍になっている。高知市民のカツオ好きが明らかになっている。
 また、ウドンやソバの出汁に使用される「宗田カツオブシ」は、全国の約8割が土佐清水市で生産されている。
 「県の魚」がカツオに選定されているのは、当然であろう。これだけカツオのお世話になっているから、高知県ではカツオでいかに盛り上げていくか。今後の検討課題であろう。
 十数年前、『土佐カツオ漁業史』の取材のため、鹿児島県枕崎市を訪れた。ここでは、カツオで町興しを考えていた。いたる所にカツオのぼりが揺れ、カツオ街通りなど、町中カツオ尽しであった。
 カツオ節が中世の武士たちの戦場での携帯品になり、「勝男武士」と呼び、戦いの勝利を祝う目出たい魚として祝宴の席に供えられる習いがあった。この考えは、古代からもあり、朝廷における祭事や伊勢神宮の神饌として用いられていた。それに、各地の神社で本殿の屋根の押さえ木として利用されているカツオ木をよく見かける。
 現代でも、婚礼の結納品の一つに「松魚節」と書いている。これは、カツオ節が松の根っ子の様に、堅く色合いが似ているし、「松竹梅」の縁起もよい。「勝男節」と書かれたものもある。男性の力強さを表現したものである。
 吾川郡いの町の「草流舎」では、大きなカツオを背負った「カツオ担ぎ童子」の人形を製作している。熊を引き連れマサカリ担いだ金太郎のように、たくましく育ってもらいたいとの製作者の意図が強く伝わってくる。
*** 写真は、富山県氷見市の道路にあったマンホールの蓋。
氷見港は、主にブリの水揚げが多い。宗田カツオも水揚げされるようだ。
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2012年4月 6日 (金)

   広谷喜十郎の歴史散歩  18

   桂浜の龍宮祭と坂本龍馬

 春は、海からもやって来る。高知市桂浜にある海津見神社(龍王宮)の春の大祭が4月8日に行なわれる。
 昭和6年刊行の大久保千濤著『吾南の名勝』によると、〈海津見神社は浦戸村桂浜龍頭下岬に鎮まり、俗に龍王宮と称へられ(略)旧暦三月十五日は潮干狩と云って昔より遊客が多く、従って祭日の三月十五日に海浜一帯人の山を築いて、酔客の唄は波音と呼応して一日を賑はしく送り〉という状態であった。
 地元では、この神社を「龍王さん」と親しんでいた。砂浜から神社へ架けられた橋も「龍王橋」という。神社のある岬は「龍王岬」、東の岬を「龍頭岬」と、呼んでいる。
 最近まで、この龍宮祭は神事だけになっていた。が、地元の有志らで組織された桂浜再生促進協議会が、平成20年に春の大祭として再興した。4月20日に〈昔話の「浦島太郎」を題材にした仮装行列や、約150枚の大漁旗を使った「昇竜」がお目見えし、観光客の目を楽しませた〉(『高知新聞』)という。
 4回目の今年(昨年は震災で中止)は、浦戸地区連合町内会を中心とする実行委員会が4月8日に、実施する。
 龍頭岬には、昭和3年高知県の青年たちにより「坂本龍馬の銅像」が建立された。幕末に、「天馬空を行くが如き」生き方をした龍馬もまた「龍」の字を持っている。ブータンの若き国王が心の中に、龍を育てながら生長して行くと述べていた。龍馬もまた、心の中に龍を育てながら、薩長連合・大政奉還の根回しを行なった。そして、「船中八策」を書して、明治新政府の大号令である「五箇条の御誓文」に大きな影響を与えた。
 
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2012年3月29日 (木)

広谷喜十郎の歴史散歩 17

 花祭りと大福茶(2)
鎌倉時代の文保2年(1315)、土佐を訪れた高僧・夢窓疎石が吸江庵(現・高知市五台山麓)に住んだ。ここから土佐での本格的な喫茶風習が始まった。 この寺には、貞和5年(1349)の銘入りの茶石臼が保存されている。
 文和3年(1354)に、吾北の上八川郷が吸江庵に寄進され、応永4年(1397)には、樅ノ木山も寺領となる。『長宗我部地検帳』の「吾川郡小川村」の条に〈茶園有〉とある。本格的な茶畑が設けられたことが解る。それに伴い、山間部にも禅宗の寺院がいくつか建立されるようになった。
 山内一豊が土佐に入国した直後の慶長8年(1603)には、吾川郡等で特命を受けた茶師・棒蔵主の活躍が知られるようになった。
 慶安4年(1651)に、樅ノ木山などから茶が伊予にまで移出されるようになった。そこで、土佐を代表する四大銘茶の一つとして樅ノ木山茶が『土佐国国産往来』に記録されるまでになる。
 この香気高い山茶を復活すべく、国友農園では10年前から「有機・無農薬栽培に徹底的にこだわり、すすきを乾燥させたカヤ肥と、ほんの少しの油かすだけで育てる山茶」作りに、真剣に取り組んでいる。それで、伝統的な縁起めでたい「大福茶」も復活できたのである。
 大福茶について『池川町誌』によると、4月8日の〈この日初めて茶を摘み、初茶・八日茶などと呼んで正月に使う家もある〉と言う。
 本山町では、この茶が〈特に邪気をそそぎの意味があり、お茶を摘む〉とのことである。(筆者注:そそぎ=濯ぎ)
 『芸西村史』には、〈この新茶を蓄えておいて元日の朝祝いに福茶と言って、この茶を飲む〉とある。
 高知県に隣接した四国中央市新宮町でも町誌によると、正月の早朝近くの谷川で〈福汲み、徳汲み、幸いくむ〉と唱えて若水を汲み〈前年の四月八日に摘んだ茶葉で初茶をわかして飲む〉という。
 京都・宇治の800年も続く老舗「通円茶屋」の通円良三氏が、『橋守八百年〜茶のみ咄し』刊行している。「大福茶の話」のなかで〈大福茶と言うのは元日の朝、番茶や煎茶に梅干しと結びこんぶを入れて飲む縁起を祝うお茶のことで、歳の暮にどこの町の御茶屋さんの店頭でも赤地に黒文字で勢いよく「大福茶」と書いた袋詰で花々しく売られています〉と記述している。
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2012年3月27日 (火)

広谷喜十郎の歴史散歩 16

    花祭りと大福茶(1)

 4月8日は、仏教の開祖・お釈迦さまの誕生日である。寺院では、たくさんの花々で飾った花御堂を設けて
釈迦誕生仏を安置する。参詣者は、甘茶を注いで拝む。インドの伝説によると、釈迦の産湯のために、
八大龍王が冷熱二筋の水滴を天上から流したとされる。
 参詣者は、甘茶を小さな容器に頂き、家に持ち帰る。家族皆で、分けて飲む習慣になっている。甘茶は、
ガクアジサイの変種アマチャの若葉をもみ、乾燥させたもので、それを煎じて作ったものである。
 我が家では、近所にある朝倉の高蓮寺に参り、「天上天下唯我独尊」の誕生仏に甘茶をかける行事に参加する。
「天上天下唯我独尊」とは、生命1つ1つが等しく尊いという意味だそうである。

 土佐の年中行事と茶の関係を調べると、花祭りとの繋がる行事がある。
 『吾北村史』によると、正月の若水迎えでは、邪気を祓い、福の願いを込めた「大福茶」を飲んでいたとある。
さらに、旧暦4月8日の花祭りの日、新茶を摘み、翌年の正月に飲むという風習もあったという。
 いの町吾北地区の国友農園では、香気高い山茶を「りぐり山茶」として復活した。(注・りぐりとは、念を入れた、吟味したという意味を持つ土佐弁「りぐる」。りぐってあるの意。)
この方法を用いて、「御大師様の大福茶」とした。 「りぐり山茶」の生まれた柳野地区では、ミニ八十八ヵ所巡りなど、弘法大師信仰が深く浸透している。季節感を大切にしつつ、家族の無事を祝い、祈る行事が残されている。
 縁起めでたいお茶をいただき、心豊かなひと時を持つことも大切であろう。

 大福茶について、『日本国語大辞典』(小学館)に、〈一年中の悪気を払い、縁起を祝う。村上天皇が疫病に悩まされたとき、茶を飲んで平癒された故事から「王福茶」と表記する〉とある。
 平安時代中期、都で疫病が流行り、人びとが苦しんでいた。空也上人が、祇園の地で釜をかけ茶を煎じ、梅干しと昆布を入れた茶を飲ませたところ、多くの人が全快したという話も伝わっている。Dscf1360


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