2016年8月25日 (木)

広谷喜十郎の歴史散歩 253

 京都・宝ケ池

 息子のお盆休みに京都へ連れて行ってもらった。子供たちが幼い時に助けてもらった人が大津市に住んでいる。高齢のため施設に入っているが、望郷の心は強く、表現できる精一杯の所作で喜びを表現してくれた。
 繁忙期で、京都市のグランドプリンスホテルにやっと宿泊ができた。そこは、比叡山の麓で宝ケ池公園の傍にあり、国立京都国際会館も近く外国人の宿泊も多かった。ホテルのパンフレットに〈宝ケ池は、江戸時代中期に築造された灌漑用水池で、周囲は約1.8km(徒歩約30分)〉とあった。早朝に近所の様子を探りに行った妻によると、散歩やジョギングの人が多く、周辺は田圃を埋め立てた新興住宅地となっていると言う。立派な邸宅もあり、田圃も残っていて、我が家の近くの風景に似るらしい。元々湧水があったと言うから、朝倉と似ている。地理的に都の近くで…、こちらは鄙での違い?。

 高知市朝倉地区にある朝倉神社は、古代の格式高い天津羽々と斉明天皇の女性神を祀っている。皇室と縁の深い地である。鏡川の支流である神田川に流れ込む谷が沢山ある。男女(おめ)、網代(あじろ)谷等の小字がある。土佐道路(国道56号)沿いのフジグランなど大型店が集中する辺りからは、縄文・弥生時代の遺構も発掘されている。冷たい地下水により保存されたようだ。古くからの住民は苦労したらしい。神田川が本格的に改修される迄、度々の洪水に悩まされている。

 宝ケ池は、宝暦年間に農業用のため池としてつくられた人工池で、もともと湧水があった深田の東側に堤をつくってせき止めたものである。1855年(安政2年)に拡張工事が行われた。水不足に苦しんでいた溜め池は宝のように思われた。池の形が分銅型で、お金に例えられたとか、名称については諸説あるようだ。現在は、市民の憩いの場所となっている。

グランドプリンスホテル全景
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2016年8月19日 (金)

広谷喜十郎の歴史散歩 252

     安全と安心

 「熱い」も「寒い」もコントロールできる。しかし、見えないものや聞こえないものには、とても鈍感になる。それが少しづつ、ゆっくりとやってくると年寄りには、とても不安だ。

 長男は、愛媛大学工学部電気科卒である。入学時に、部屋を借りた大家さん曰く、「この部屋は、代々皆さん四国電力に入社しました…」と、誇らしげであった。卒業時に息子は、「原発はもしものときの担保がない」と当時先端企業のIT業界へ。次男は、祖父の出身地能登半島を旅した時、「原発のある海の魚は、食えない」と。予約なしの旅で、困った記憶がある。

 8月12日付高知新聞「伊方再稼働」の報道に…。最大手の東京電力でさえ対応できていない上に、「中央構造線断層帯」が横たわり、巨大地震の恐れが否定できない状況でだいじょうぶだろうか。犬のお巡りさんではないが、「困ってしまってワンワンワワン〜〜」。

 先日、お盆休みに滋賀・京都へ旅した。高速道の法面に、太陽光発電のパネルが張り付いていたり、民家や民間企業の屋根や壁面、発電畑と呼んだらよいのかな?と思うものさえ沢山ある。熱暑中のドライブ旅行で、屋根の日除けにしたらどうかな?とか思ってしまう。
 山の上に、巨大な白い風車が優雅にまわっている。これも発電をしている。
 化石燃料の高騰と地球温暖化防止を背景に、原発反対は気軽に叫べない。
照明だけではなく、オール電化が進んでしまっている。年寄りにも安全・快適な生活が求められている。
 実は、我が家も発電中なのです。留守中しっかり働いてくれただろうか。


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2016年8月12日 (金)

広谷喜十郎の歴史散歩 251

      野中兼山記念公園を考える

 昨年は、野中兼山生誕400年にあたっていた。
 藩政初期、兼山は二代藩主の信任を受け全藩的規模で、大規模な土木工事を行った。仁淀川の八田堰・物部川の山田堰等々。室戸港や手結港などの開発を行い、藩の財政が豊かになる基礎を作ったが、あまりにも急速的な改革であったため、不満が起こった。他の家老たちがそれを受けての上申書が出され、失脚した。
 兼山は、藩主・山内家の縁戚にあたり筆頭家老でもあった。「野中婉の会」の須田氏が提唱し、春野町公民館で会が持たれただけであった。市教委が若干後押しをしたが、残念であった。全県下で兼山を考える動きを期待していたが、ほとんど話題にもならなかった。
 
 最近、「地方創成」と言う声が高くはなっている。その種まきを行った兼山の時代にその視点を置くと、材料が沢山ある。NHK高知放送局のプロジューサーから兼山をテーマに製作してみたいとの相談があった。いくつかの問題提起をしておいた。その番組に期待している。
 高知城の表門、追手筋西端堀川渕に「野中兼山邸跡」の碑がある。「野中兼山の屋敷は、県立図書館・文学館を含む広大な一角で2,280坪と記されている」(土佐ボランテイア協会)。お堀の内側の住んでいたのである。
 県立図書館に勤務していたから、その周辺に兼山邸の遺跡を物語るものがいくつか出土していた話も聞いている。
 近く、図書館が撤去されるそうだから「野中兼山記念公園」と名付けた公園にしたらと思う。が、以前からその話はあり、立ち消えになっている。
 兼山の母親を埋葬してある墓の本山町「帰全公園」には、兼山の立派な銅像があり、シャクナゲも植栽されている。
 高知城内に縁の公園があってもよかろうと思う。
 
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  帰全公園の野中兼山像
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2016年8月 6日 (土)

広谷喜十郎の歴史散歩 250

     土佐は酒国あれこれ

 先週、高知酒造組合の第13回「土佐酒アドバイザー研修会」の講師として参加した。「土佐酒造りの歴史」をテーマに話した。
 この会合は、2〜3年毎に開かれている。初回から講師を務めている。受講生は、年々若い人が増えている。しかも、女性が多くなってきている。時代の変化を感じる。
 酒造りの歴史は、千年余の記録がある。それを一時間位での話で…と云うことで苦労した。土佐酒の特色は「淡麗辛口」と言われている。瀬戸内方面の甘口の酒と比して辛口は解るが、なぜ「淡麗」なのか。
 今上陛下がまだ皇太子であらせられた時に、大学の恩師と共に夕食に招かれた。その席で、「元気な酒ですね」と仰せられた話を紹介した。
 日本の古代を代表する文献に、かつては仁淀川を「神河(三輪川と唱う)」とあり、この河川の水で作られた酒を土佐の大神・土佐神社に貢納した。と、ある。ここで、奈良の三輪山の紹介をした。「一夜酒」の風があり、高知市介良の朝峯神社では、今でも(税務署の許可を得て)造っている。
 さらに、京都・嵐山の麓にある松尾大社は、渡来系の酒の神である。仁淀川沿いの土佐市の松尾八幡宮や高知市鴨田の松尾神社があり、かつては酒造家から厚く信仰されていた。
 平安時代(10世紀)に、この二つの系統の酒造りが統合されて、日本酒の原型ができた。
 中世末期になると、奈良興福寺『多聞院日記』に、火入法(低温殺菌法)による我国独自の清酒造りが始まったと、記録されている。興福寺の末寺・正暦寺には、「日本酒発祥の地」の大きな碑がある。
 
 土佐でも17世紀には、寒造りや先進の醸造法が向上した。坂本龍馬の先祖の才谷屋が大金持ちになった話につながる。
 享保9年(1724)、江戸幕府の著名な江戸町奉行・大岡越前守は、土佐と東北3藩の留守居役を呼び、各藩から産出される杉が高騰し、酒の価格が高くなったので、警告を発している。そこで、〈酒樽を造る杉のことは(略)江戸上方の売酒に適用する樽は(略)近年伐りつくして此頃は遠山で仕成し、流材その他で経費がかさむ〉と応えている。此の酒樽を運ぶ千石船を樽廻船と呼び、杉の移り香の酒が江戸の人々に、愛飲されたという。
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     奈良三輪大社内で
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2016年7月29日 (金)

広谷喜十郎の歴史散歩 249

     高知の空を最初に飛んだ人

 夏休みのシーズンになった。テレビや新聞の報道によると、海外旅行や国内旅行でも航空機を利用する人が多くなったようだ。悪天候や何かのトラブルが起きると、空港に人が溢れかえり、困った機会も多くなっている。
 最近、名古屋へ行く便が1日二便になった。妻と孫が、名古屋の動物園へ行きたいね。と、いう会話をしている。
 数年前、何度かJRで名古屋へ取材旅行に行ったことを思い出す。片道に半日を要した。帰りは、新幹線からの連絡は予讃線に都合良く組まれていたから、岡山駅でうろつくことも多かった。

 ここでは、高知県の空を最初に飛んだ人は誰か? 高知県人では誰か? 少し紹介しておきたい。
 明治36年(1903)アメリカのライト兄弟が世界で始めて飛行機を作ったことは、有名である。同じ年に、幡多郡拳の川(現・黒潮町)の種吾さんも飛行機製作を試み、足踏み回転式の機を製作している。大正2年(1912)には、宿毛市伊賀氏広が高知市朝倉練兵場に、機体を運び入れたが、滑走ばかりで空に挙がることができなかった。
 大正4年(1915)8月、荻山常三郎が来高し、高知の空始めて飛んでいる。同6年10月30日、アメリカ人の飛行家・フランク チャンピオンが来高し本格的な飛行を行った。10万人程の見物人が集まったという.しかし、二回目の飛行の時〈筆山を掠め(略)鴨田上空にて(略)風圧の為左翼切断し、400フィートの高空より無残や墜落したり〉と云う状態であった。彼の記念碑と忠魂碑は鏡川の広場に立っている。
 高知県人で高知の上空を最初に飛んだ人は、安芸市川北出身の安岡駒である。弱冠17歳で、大正9年のことである。

 1985年(昭和)8月12日、日本航空便(乗員・乗客524人中 520人死亡)の最悪の事故があった。御巣鷹山事故。先日、慰霊登山の準
備をされていた日航職員の方が転落し、亡くなられた。ご冥福をお祈りします。

  フランク チャンピオンの碑

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  名古屋国際空港
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2016年7月21日 (木)

広谷喜十郎の歴史散歩 248

      土讃線の開通

 日本の鉄道の発達には目覚ましいものがある。最近は、外国の鉄道にもその技術を売り込んでいる。
 1964年(昭和39)10月1日、東京〜新大阪間に東海道新幹線が開通した。10月10日〜の東京オリンピック開会に間に合うように、工事が行われた。

 1889年(明治22)5月23日 香川県議会議員の大久保諶之丞が讃岐鉄道開通式での祝辞で瀬戸大橋の架橋を提唱した。1955年(昭和30)5月11日 、 国鉄連絡船紫雲丸による紫雲丸事故。(修学旅行中の高知市立南海中学校生徒など死者168名)事故後、香川県議会が「宇高連絡鉄道建設促進に関する意見書」を国に提出した。
 1978年に工事が始まり、1988年4月10日に瀬戸大橋が開通した。鉄道の上が自動車道で、本州と四国が陸路で繋がった。高知県民の喜びはこの上ないものであった。この開通直前3月21日、高知学芸高等学校1年生は始めての中国への修学旅行に出発した。そしてあの事故に遭遇した。橋が開通していたなら、日程は違っていたろうと…。
 
 ここで、時代を少し遡ってみたい。四国山地を越える土讃線の歴史の方を少し見てみよう。明治中期頃から計画されていたが、本格的に建設が進められたのは、大正9年のことである。十市村(現・南国市)出身の白石直治が、この工事の主唱者の一人である。彼は、東大教授を経て、実業家となり、日本各地の鉄道工事に参加していた。やがて、衆議院議員となり、四国での鉄道開発の推進者として情熱を傾ける。当時の「カミナリ総裁」こと鉄道院総裁・仙石貢(高知市出身・後の鉄道大臣)は、四国での鉄道建設にあまり乗り気ではなかった。それを熱意を込めて説得した。
 険しい四国山地に遮られ、トンネルが百箇所余の難工事で停滞気味で、ようやく鉄道が開通したのは、昭和10年のことである。陸の孤島から解放された。それを記念して、昭和12年「南国大博覧会」が鏡川河岸で催された。連日、大勢の人々が詰めかけ大いに賑わったという。

 名古屋駅の新幹線列車
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   高知駅前の土讃線開通記念碑
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2016年7月14日 (木)

広谷喜十郎の歴史散歩 247

      新居浜市の弘瀬記念館と川田小一郎

 日曜日恒例・温泉の日。老親に対しての二男の孝行日。
 愛媛県新居浜市にある別子銅山跡の温泉に行った。
 そして、広瀬歴史記念館をも訪ねた。ここは、幕末から明治期に別子銅山の総支配人として鉱山発展のために尽力した広瀬宰平の邸宅趾をそのまま保存してある。市の有形文化財になっている。
 ここには、高知市旭元町出身の川田小一郎の書状が展示されている。明治初年、川之江(現・愛媛県四国中央市)が土佐の支配下に置かれた。その折、土佐軍の一隊を率いて別子銅山の接収にあたった人物が川田小一郎であった。陳情を受けた小一郎は、全山を視察した。そして、〈住友家多年の栄為を了解し(略)寛大なる取り扱ひ方を指示し(略)山内の動揺を防がしめた〉(『別子銅山開坑二百五十年史話』)とあるように、4,000人余にも及ぶ坑夫たちにも給米を与えると共に、住友家の永年にわたる鉱山経営の努力を評価した。
 更に、小一郎は宰平を随伴させて京都に赴き、住友家が鉱山経営を継続できるように新政府から許可を得るように尽力した。この小一郎の厚意に対し、後年、感謝を込めてこの鉱山から採取された銅をもって銅像を造り、贈った。
 その後の小一郎は、三菱の岩崎弥太郎の片腕として活躍し、日本銀行大3代総裁となり、日本経済発展に大きく貢献した。

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2016年7月 6日 (水)

広谷喜十郎の歴史散歩 246

        七夕飾りとカジノキ

 (今回は、少々茶の心得のある妻の雅子が書きました。)
 20年程前、京都の著名な塗師が茶道雑誌に、その月に因んだ植物の図案を連載していた。その由来も併せての1ページは楽しみであった。
 7月は「梶の葉」で、七夕の短冊のことが書かれていた。「カジクサ」のことだと思っていたら、少々違う。いろいろ調べていくと、あのシーボルトが、誤ってというか「楮」にkazinokiという学名をつけたという話もある。どちらでも繊維の採りやすいことが大切だったのであろう。
 正確には、コウゾはカジノキとヒメコウゾの交配によって生まれたものである。彼方此方走り回って調べ、行き着いた先は「牧野植物園」。「カジノキ」と「コウゾ」が隣り合って植えられていた。カジノキの葉の触感は、イチジクの葉の近い。梳毛が密生している。コウゾは桑に似ている。カジノキの葉は、墨の乗りもよく字が書ける。
 カジノキの葉は、紙を漉く技術が発達していない時代に、高価な紙の代わりに、使われたのであろう。
 近所の森林総合研究所四国支所の見学会で、『百樹趣向』という本を見つけた。「奥州白石紙すき唄」が紹介されていた。〈こうぞ植えらば 虎斑のこうぞ 殿も奨める紙の原料 紙のもと 春は裸で 夏綿入れて 秋に肥らせ 冬に穫る…〉この唄の内容は、白石紙は原料としてコウゾではなく、カジノキの繊維を使うこと。それも雌株・虎の緒(虎斑)と呼ばれるのを使う。と。
 白石和紙は、丈夫なことから文化財の修理用としても使われる。東大寺のお水取りのときの僧侶の装束にも。歌舞伎では零落した人物を表現する衣装(実際はしっとりした絹の衣装である)として。
 当代・坂田藤十郎は、近松門左衛門の作品を復活上演するにあたり、白石和紙で作った紙衣に、高名な画家に絵を描いてもらい衣装とした。
 戦国武将たちも紙衣に柿渋を塗ったり、金欄、摺箔、緞子の裂を付け桃山好みの美服にした。明治以前、木綿がふんだんに使われる前は、庶民も軽くて柔らかく加工した紙衣を愛用したようだ。

 カジノキの正体を尋ね回っていたら、「家の女紋は(カジ紋)で、お諏訪様(諏訪大社)からお嫁に来られたおばあさまが持って来たもので…」という話を聞いた。新緑の季節を待って、諏訪を訪ねた。
 諏訪大社は、上社本宮(諏訪市)・上社前宮(茅野市)・下社春宮(下諏訪町)・下社秋宮(下諏訪町)と、文字通りの大社である。
 元来、カジノキは御神木であり、神霊が宿るといわれてきた。神に供える食物をこの葉に盛ったという。  
 


 


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2016年6月23日 (木)

広谷喜十郎の歴史散歩 244

      塚地越えの青龍寺への道

 『高知新聞』の平成28年6月18日付に〈遍路「青龍寺道」国史跡に〉とか〈土佐市の1.6㌔・文化審「道」で県内初〉という大見出しの記事が掲載された。記事によると、〈四国霊場35番札所の清滝寺(略)から36番札所の青龍寺(同市宇佐町竜)の中間にある約1.6㌔。1998年に塚地坂トンネルが開通するまでは歩き遍路の主要な道だった(略)道しるべや磨崖仏(まがいぶつ)、供養塔などがある〉とある。
 なお、今回の指定を受けた遍路道を含め、徳島県では9カ所、香川県が2カ所、愛媛県が2カ所となっている。
 更に、これらのルートが世界遺産へ向けての動きもあるので、大いに期待されている。
 かつて、宇佐の港を出発してこの「塚地越え」の道を通り、高知市朝倉の自宅まで歩いてみたことがある。当時、高知市広報「明るいまち」へ連載記事を書いていた。そのための取材試行でもあった。
 このルートは、遍路道だけでは無く、高知の城下の人々へ「新鮮なカツオ」を届けたいという、いわゆる「夜売りの道」であった。宇佐の若者が、浜揚げされたカツオを籠に入れ、約3時間で駆け抜けたルートであった。当時は、仁淀川の河渡しの舟を利用したり、春野地区に来ると荒倉越えの坂道も待ち受けていたのである。
 荒倉トンエルは、昭和28年に開通する。それまでバスでさえ荒倉越えの峠道を走っていたという。昭和49年に2本目のトンネルが開通し、上下線で交通がスムースになった。


 

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2016年6月17日 (金)

広谷喜十郎の歴史散歩 243


     マンホールのご当地絵模様

 南海地震をにらみ、道路拡張や下水道工事などが進んでいる。
 最重要な消火栓の蓋には、消防自動車の絵柄と消化栓とが明記されている。       

 高知市では、平成10年(1998)9月24日〜25日秋雨前線による集中豪雨のため、1時間降水量129.5ミリ、日降水量628.5ミリの観測史上最高を記録した。このため、布師田、大津、介良、高須の国分川・舟入川流域、潮江中南部、初月地区などが浸水し、中心市街地や西部は一時的な冠水や局所的な浸水となった。被害は死者7人、負傷者11人、家屋の全壊16世帯、半壊17世帯、一部損壊32世帯、床上浸水12,684世帯、床下浸水7,065世帯等に及び、家屋総額は約422億2,900万円に達した。
 この大雨のため、下水のマンホールの蓋が水圧で浮き上がり、2人の方が亡くなった。高知市ではこれを教訓に、マンホールの蓋をねじ込み式に
変更された。
 近年、マンホールの蓋のご当地絵模様が目立ってみられる。汚水・下水用、農廃水用など。都市によっては、上水用マンホールもある。
 県内では、須崎市の「山ザクラとカワセミ」、香南市野市の「スイセンとヒバリ・山北ミカン」、香南市旧夜須町「夫婦岩と松」。安芸市「野良時計とツツジ・ナスビ」等々。
 
 数年前、名古屋市を訪ねたとき、舗道の敷石にホタルが描かれていた。郵便ポストの上に有名な藩主が座っていたり、市長のネクタイや夏のシャツは、ご当地名産の「有松絞り」。選挙運動中には、ご当地の中日ドラゴンズの野球帽を冠り、自転車で走り回っていた。

 全国に、世界中にマンホールは存在する。古代ローマ帝国にも下水道が有り、砂岩で蓋が造られていたという。これらを見学するために、観光客の足も延びている。


 
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